なの魂

「侍の国」
 僕らの国がそう呼ばれたのは、今は昔の話。
 数十年前、突如異世界から舞い降りた天人(あまんと)の台頭により
 侍は衰退の一途をたどった。
 かつて侍達が仰ぎ、夢を馳せた青い空には異郷の船が飛び交い
 かつて侍達が肩で風を切り歩いた街には、今は異人がふんぞり返り歩く。
 それが僕らの世界。
 それが僕らの町、江戸である。



 朝日が町を彩り、小鳥達が穏やかな合唱を始める。
 爽やかな風が連なる店先を吹き抜け、そこかしこから雨戸を開ける音が響きだす。
 ここは江戸、海鳴市の小さな商店街。
 その一角にある喫茶店『翠屋』の二階に、小さな女の子が立っていた。

「銀さ〜ん、家賃の回収に来ましたよ〜。開けてくださ〜い。いるのは分かってますよ〜」

 小学校の低学年くらいだろうか。
 二つに結えられた、栗色の長い髪。
 まだあどけなさが見えるも、それと相反する大人びた雰囲気。
 少女――高町なのはは、目の前にある引き戸の玄関を無遠慮に叩き続けていた。
 戸が揺れ、ガラスの震える音が辺りに響く。
 しかし、住人達が出てくる様子は無い。
 なのははため息をつきながら、背後の手すりにもたれかかった。
 ――『万事屋銀ちゃん』。
 彼女がもたれた手すりには、そんな文字が描かれた大きな看板が掲げられていた。
 階下が喫茶店であることを考えると、かなりアンバランスな構図である。
 さて、この『万事屋銀ちゃん』だが、別に多種多様の雑貨を扱っている店ではない。
 『よろずや』と聞くとそちらを連想する人間の方が多いが、その実態は体の好い便利屋である。
 迷子になった飼い猫の捜索から、アイドルの護衛まで。
 金さえ貰えればなんでもする。それが『万事屋銀ちゃん』なのだ。
 そんな胡散臭い商売をしているせいか、彼らの家計は常に火の車。
 家賃すらろくすっぽ払えないような生活を送っている。

「はぁ……」

 再度、なのははため息をつく。
 苦労人だということは分かるし、出来るだけ力になってあげたいとも思う。
 が、だからといって家賃を踏み倒すことを許容するほどなのはは寛大ではなかった。
 服のポケットを弄り、小さな鍵を取り出す。
 呆れ果てた様子で、なのはは目の前の引き戸を見つめた。



 ゴンゴンと忙しなく聞こえてくる、玄関を叩く音。
 中央に置かれたテーブルを、挟むように配置されたソファー。
 そしてその奥に、でんと構える大きな事務デスク。
 その上で健気に存在感をアピールしている『糖分』と書かれた額縁。
 デスクの上に乱雑に放り捨てられた雑誌の山や空になった菓子の袋が、この部屋の主の性格を雄弁に語っている。
 なんとも無秩序なこの部屋は、『万事屋銀ちゃん』の事務所だ。

「……はぁ……」

 唐突に聞こえてくるため息。
 発生源である机の下には、眼鏡をかけ、昔ながらの白い着物と藍の袴をカッチリと着こなした青年、
 深いスリットの入った紅色のチャイナドレスを着た可愛らしい少女、
 そして黒い服の上から、袖口や裾に空色、群青色の色模様が染め付けられた白い着物を着流す、白髪の男性が潜り込んでいた。

「どうするんですか? 銀さん。これじゃ迂闊に外に出れませんよ。珍しく仕事が来たっていうのに……」

 眼鏡の青年――志村新八はそう言い、再びため息をつく。
 一週間ぶりに、ようやく舞い込んできた仕事の依頼。
 しかも報酬は結構な額ときた。
 これをこなせれば、しばらくは生活費に悩まされることも無いだろう。
 そう思い喜んでいた矢先に、恐い家賃取りの襲来だ。
 これでは仕事はおろか、外出することすらもままならない。
 もし一歩でも家から踏み出そうものなら、身包み剥がされてゴミ捨て場にポイされることは必至だろう。
 心底困った様子で眉をひそめる新八。
 彼の隣で、先程までじっと息を潜めていた白髪の男性――『万事屋銀ちゃん』店主、坂田銀時が口元で人差し指を立て、
 静かに訴えかける。

「いいか、絶対動くなよ。気配を殺せ。自然と一体になるんだ。お前は宇宙の一部であり、宇宙はお前の一部だ」

 一体どこの哲学家だ。と言いたくなる様な台詞を捲くし立て、魔の取立人から逃れるべく、彼は再び息を潜める。
 そんな彼の隣では、チャイナドレスの少女――神楽が、なぜか目をらんらんと輝かせていた。

「宇宙は私の一部? スゴイや! 小さな悩みなんてフッ飛んじゃうヨ!」

 ガタガタと机を揺らし、近所にも聞こえそうなくらいの声を上げる。
 このまま放っておけば、勝手に何処かへ冒険に行ってしまいそうなテンションだ。
 さすがにこれには銀時も焦った。
 普段なら「ついでにお前もどっかに飛んでってくれや」とでも返すところだが、今は玄関先になのはが控えている。
 自分達が居留守を使っていることを悟られるわけにはいかない。

「うるせーよ! 静かにしろや!」

 これまた近所に聞こえそうな声で注意する銀時。
 もう完全に居留守の意味がなくなっている。

「アンタが一番うるさいよ!」

「いや、お前のツッコミが一番うるさい!」

 当初の目的を忘れて、三人は迷惑千万な口喧嘩を始める。
 部屋中に響く、お騒がせ三人組の怒鳴り声。
 先程まで聞こえていた戸を叩く音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。

「……静かになったな。帰ったか?」

 口喧嘩を中断し、銀時は玄関へ目を向ける。
 それと同時に、事務デスクの上に置いていた雑誌のページがパラパラと捲れる音。
 いつの間にか開いていた玄関から、風が吹き込んでいた。
 ――まさか。
 三人はぎこちなく、自分達の背後へ視線を向ける。

「……なんだか、林間学校みたいでドキドキしますね」

 銀時の肩先からひょっこり顔を出したその少女は、満面の笑みを彼に投げかけた。
 途端に静まり返る室内。
 時計の針の音とスズメのさえずりだけが部屋の中に満たされる。

『……うおわァァァァァ!!!』

 弾ける様に万事屋の三人は机の下から飛び出した。
 床に散らばった雑多なゴミを蹴飛ばし、ソファーを飛び越え、隣の和室へと繋がる襖を勢いよく開く。
 なのはもすぐさま机の下から飛び出し、逃走を計る銀時達を追いかける。

「銀さん! 今日こそは家賃払ってもらいますよ!」

「だーかーらー! 無い袖振ってもでねーモンはでねーっての! 大体お前、学校はどうした!?」

「大丈夫です! あと三十分は時間に余裕がありますから!」

「バカヤロー! 朝の三十分はスッゲー貴重なんだぞ!? もっと有意義に過ごしやがれ!!」

「なら、素直に家賃払ってくださーい!!」

 ドタバタと和室を駆け回り、下手なコメディドラマのように四人はギャーギャーと騒ぎ立てる。
 しかし家賃の滞納が原因で、しかも小学生の女の子に追い掛け回されるとは、なんとも情けない大人である。

「開け、ゴマ!!」

 一頻り部屋を走り回った後、銀時は息を切らしながら路地に面した窓を開け、新八と神楽を引き連れてそこから飛び降りる。
 着地、着地、そして落下。
 ただ一人顔面から十点満点の着陸を果たした新八を尻目に、銀時と神楽は路地を駆け抜けようとする。

「お兄ちゃん、お姉ちゃん! そっちに行ったよ!」

「はーい、いらっしゃいませー」

「さて、観念してもらいますよ。銀さん」

 しかし、そうは問屋が卸さない。
 先程銀時達が降ってきた窓からなのはの声が聞こえたかと思うと、彼らの前後を挟み込むように二つの人影が現れた。
 木刀を肩に担ぎ、どこか威圧的な笑みを浮かべるその男女は、高町家の名物兄妹、恭也と美由希だ。

「う……さすが兄妹。いい連携……」

 身体中に付いたホコリを掃いながら新八が立ち上がり、その背中に脂汗を浮かべながら後ずさりをしてきた銀時がぶつかる。
 もはや絶体絶命か?
 しかし疲れた様子の男二人とは対照的に、神楽はどこか不敵な笑みを浮かべていた。
 そう、「こっちはまだ奥の手を見せていないぞ?」と言わんばかりに。

「定春ゥゥゥ!!」

「わぅーん」

 神楽の叫びと共に、空に響き渡る間の抜けた鳴き声。
 それと同時にただでさえ薄暗かった路地が、いっそう闇に包まれる。
 ドスン、という衝撃。
 巻き上がる砂埃。
 思わずあとずさる恭也達の前に現れたのは、乗用車ほどの大きさの真っ白な犬。
 神楽の愛犬、定春だ。

「銀ちゃん、新八、早く乗るヨロシ!」

 恭也達が怯んだ隙に、神楽は定春の背中へ飛び乗り、残る二人も彼女の言葉に従う。
 銀時が定春の背中へ飛び乗り、そして新八が大慌てで定春の大きな尻尾につかまったその瞬間。
 わんっ、と元気のいい鳴き声が聞こえたかと思うと、まるで弾けたバネのように、路地から商店街へ向けて
 巨大な白い犬が飛び出していった。
 壮大に砂煙を上げながら、常識はずれの速度で商店街の幅広い道を疾走する巨大犬の後姿を、
 高町兄妹はただただ口をあんぐりあけて見送るだけであった。

「逃げられちゃいましたね……」

「まったく……いい加減彼には、責任感という物を学んでもらいたいね」

 嵐の後の静けさの中、翠屋の店先から、一組の男女のぼやきが聞こえる。
 彼ら高町夫妻――士郎と桃子もまた、呆れ顔で銀時達を見送っていた。



「ところで銀ちゃん。今日の仕事って何アルか?」

 どうにか怖い借金取りの魔の手から逃げ出し、定春の上で目一杯風を感じていた神楽が尋ねる。
 銀時はどこか億劫そうに袖の下から手帳を取り出し、返す。

「今日っつーか、長期の仕事だな。ガキのお守りしてくれってよ」

 その"ガキ"というのは、どうやら足に原因不明の病気を患っているらしく、しかも一人暮らしをしているらしい。
 今回銀時に廻ってきた以来は、その子供の生活の補助。
 早い話、ホームヘルパーのような仕事であるとのことだ。
 わざわざ万事屋を雇ったのは、経費削減のためかそれとも単に人手が足りなかっただけなのか。
 真相は依頼者のみぞ知る。

「依頼主は……確か、海鳴大学病院の石田先生でしたよね? ……どういう関係ですか? 銀さん」

「あァ? 糖尿の検査で、何度か世話になった程度の仲だよ」

「……なんかイヤな仲ですね。それより、どうしましょ? 約束の時間まで、まだ暇がありますけど……」

 振り落とされそうになりながら必死に尻尾を伝い背中に乗った新八は、額の汗を拭いながら
 左腕に巻いた安物の腕時計に目を向ける。
 現在時刻、朝の7時41分。
 仕事先へ顔を出す時間は9時の予定なので、到着までの時間を考えても、
 実に一時間近く暇があることになる。
 銀時は顎へ手を置いて考えを巡らせる。
 一旦家へ戻る?
 論外だ。そんなことをすれば、確実に高町兄妹に捕まってしまう。
 近くのコンビニで適当に時間を潰す?
 これも却下だ。
 自分達を探しに来た借金取り達と鉢合わせをする可能性がある。
 さて、どうしたものか。
 たっぷり時間を置いて黙考した銀時が出した答えは、実に単純明快なものであった。

「……しゃーねぇ。ちょいと早いが、挨拶にでも行くか」

 わん、と短い鳴き声。
 彼の呟きに応えるように、定春は跳ねるように朝日に照らされる道路を駆け抜けるのだった。



 現在時刻、朝の8時27分。
 立派な一軒家を囲む塀の外。
 西洋造りの鉄柵の門の前で、銀時は肩を落としてため息をつく。
 こんな立派な家で一人暮らしとは。借家で借金まみれになって暮らしている自分が、惨めに見えてしまうではないか。

「どーもー。万事屋でーす」

 実際問題惨めなのだが、プライドの高い銀時はそのことを認めようとしない。
 脳裏に浮かんだネガティブ思考を振り払い、何処か投げやりな様子で彼はインターホンを鳴らす。
 ……反応無し。
 10秒ほど経ったところで、再びインターホンを鳴らす。

「……出てこねーな」

「まだ寝てるんじゃないですか?」

 やはり来るのが早すぎたようだ。
 どうしたもんかと新八は腕を組み思考を巡らせる。
 と、同時。

「冗談じゃないネ! こっちは朝から借金取りに追われてたのによォ!
 なんか腹立つアル! 銀ちゃん、叩き起こしてやるネ!」

 朝っぱらから鬼ごっこを強制された神楽の不機嫌度が、ついにメーターを振り切ってしまったようだ。
 ぶんぶんと腕を振り回し、理不尽な文句をぶー垂れる。
 そして彼女の身勝手極まりない要求に、何故か銀時はノリノリで呼応した。

「オラァァァァァ!!! 16連射だボケェェェェェ!!!」

「何やってんのちょっとォォォォォ!!!?
 せっかく来た仕事パーにする気ですかアンタら!?」

 どこぞのゲーム名人のごとく、目にも留まらぬ速さで彼はインターホンを連打する。
 もはや呼び出し音なのかサイレンなのか分からなくなった大音響に、新八は大慌てで止めにかかる。
 玄関の方から間延びした少女の声が聞こえてきたのは、その時だ。

『はーい、ちょっと待ったって……ふわぁ!?』

 情けない悲鳴と共に玄関から響く壮絶なクラッシュ音。
 まるでおもちゃ箱をひっくり返したようなその耳障りな音に、銀時達はぽかんとした表情で鳴りを潜める。
 ややあって、玄関から再び少女の声が聞こえてきた。

『あいたた……あ、あの! 申し訳ないんやけど、郵便受けの中に家の鍵入ってるから、
 それ使って玄関開けてもらえませんかぁ〜!?』

 どこか困ったような、それでいて今にも泣き出しそうな声。
 不審に思いつつも、銀時は少女の言うとおりに郵便受けの中を覗き込み、その中に存在した鍵を取り出す。
 鉄柵の門を開き、短いアプローチを抜け、そして玄関の鍵を解き、ゆっくりと開く。

「あ……先生の言ってはった、万事屋さんですね〜」

 足元から聞こえてきたのは、幼い少女の関西弁。
 視線を下に落としてみる。

「あの、会ってすぐこんなこと言うのもなんですけど……ちょっと、起こしてもらえませんか?」

 おかっぱ、と言うには少し長い。洋風に言えばボブカットだろうか。
 短く切られた茶色がかった髪。薄く涙が溜められた、くりくりとした愛らしい瞳。
 神楽はおろか、もしかしたらなのはよりも小さいのではないかと思わせるほど小柄な身体。
 玄関に木の板が転がっているのを見るに、段差を降りる際に踏み外してしまったのだろう。
 上がり框のすぐ側で、車椅子と共に横倒しになっているその少女――八神はやては、恥ずかしそうに愛想笑いを浮かべて
 銀時達を見上げるのであった。



なの魂 〜プロローグ 出会いこそ人生〜