なの魂

「迷子?」

 その言葉を聞いて、彼、高町恭也は眉根を寄せて首を傾げた。
 休日の昼間だというのに珍しく客足の遠のいた翠屋で店番をしていた彼は、
 目の前の席に座る友人の話に耳を傾ける。

「ええ、なんか朝起きたら僕の部屋で寝息立ててて……」

 肩を竦めて新八は言い、テーブルに置かれた水の入ったグラスに手をつける。
 長時間食事もとらずに走り続けていた彼にとって、清涼感ある喉越しは
 何物にも勝るくらい心地よいものであった。
 一息つき、ぐったりと背もたれにもたれかかる新八を見下ろし、
 恭也はこめかみの辺りを掻きながら呟く。

「……それ、迷子とは違う気がするんだけどなぁ……」

「じゃあ他にどう説明しろってんですか?」

 新八の言葉に恭也は困ったように愛想笑いを浮かべるが、一番困っているのは
 言ってる本人であるということは、新八の表情を見れば一目瞭然である。
 ほとほと疲れた様子で、新八は天井を見上げた。
 その視界に、黒い影が差し込む。

「またまたそんなこと言って。ホントは新八くんが連れ込んだんでしょ?
 あんな可愛い子口説き落とすなんて、隅におけないじゃない!」

 茶色の長い髪を結わえ、眼鏡をかけた女性が、心底楽しそうに新八の顔を覗き込んでいた。
 女性、もとい高町美由希の言葉に、しかし新八は何の反論も返さない。
 眉根を寄せて彼女の顔を睨み、顔を起こしてため息をつくだけだ。

「あれ? 否定しないの?」

「……もう慣れましたよ」

 姉にも知人にも散々幼女趣味扱いされて、いい加減うんざりしていたところだ。
 今更同じようなネタでからかわれても、面白くもなんともない。
 新八は呆れた様子でコップの水を飲み干し、再び大きなため息をついた。

「迷子なんだったら、交番に連れていけばよかったんじゃないかな?」

 事情を聞いた人間ならば、当然浮かぶであろう疑問を恭也はぶつけてくる。
 確かに彼の言うとおりだ。
 汗水垂らして家を探し回るよりも、警察の人間に一任したほうが遥かに効率的で、確実である。
 しかし、そうするわけにはいかなかった。
 理由は分からないが、あの少女は極端に警察というものを恐れている。
 だというのに交番に連れて行くというのは、あまりにも酷というものである。
 そもそも真選組の一員に乱暴を働いた時点で、警察に頼るという選択肢は消滅しているのだ。

「……いや、それがどうも訳ありらしくて……」

 バカ正直に事情を話すのも気が引けたので、肝心な部分は隠して伝える。
 こめかみを掻き、乾いた笑いを浮かべながら、新八は隣のテーブルへ視線を移した。
 恭也もそれにつられるように、新八と同じ場所へ視線を向ける。

「訳あり、ねぇ……」

 通路を挟んだ向かいの席。
 四人掛けの席に一人でちょこんと腰掛けたその少女は、興味深そうにテーブルの上を凝視していた。
 水が注がれたグラス。
 純白の陶器でできた皿。
 その上には、色取り取りの具材をはさんだパンが、行儀良く整列させられていた。
 ぐぅ、と少女のお腹が自己主張を始める。
 皿の上に置かれたパン――つまりはサンドイッチだが――におっかなびっくり手を伸ばし、
 だが少女はためらう様な素振りを見せた後に、その手を引っ込めた。
 彼女なりに遠慮というものをしているのだろう。
 だが、目の前に鎮座する目に美しい食料は、あまりにも強烈に少女の食欲を刺激する。
 ぐぅ、ぐぅとお腹の虫が合唱を始め、少女は顔を朱に染め、俯いた。
 周囲に響くような大音量ではなかったが、それでも誰かに聞かれているかもしれないと思うと、
 やはり恥ずかしい。
 これ以上の醜態を晒さないために、己の食欲を満たすために、少女はそろりそろりと
 サンドイッチに手を伸ばし、割れ物でも扱うかのように両手でつかむ。
 もふもふと控えめにサンドイッチをかじるその姿は、リスやハムスターといった小動物を連想させる。

「訳ありといえば、君のソレはどういう訳なんだい?」

 せせこましくサンドイッチをはむ少女を眺めていた恭也は、ふと思い出したように
 新八の腕を指差しながら言った。
 ほつれてボロくさくなった右の袖、服の裏から僅かに滲んだ血。
 彼の身に何かあったのだということは、それを見れば明白そのものであった。

「あー。いや、その。あの子抱えてたら、バランス崩して転んじゃって……」

 人目に触れぬようその腕を背に回し、新八は居心地悪そうに苦笑を漏らす。
 嘘は言っていない。
 確かにこの傷は、あの少女を抱えてバランスを崩し、地面に落っこちたときに負ったものだ。
 だが。

(まさか真選組に追われてる最中に怪我した、なんて言えないよね……)

 そこに至るまでの事件を、わざわざ彼らに教えることもあるまい。
 というか、教えてしまったらそれこそ「警察行け」と言われること請け合いである。

「まあ大変。一度、病院にいって診てもらったほうがいいんじゃないかしら?」

 冷や汗を垂らし、目を泳がせる新八の背後から、淑やかな女性の声が聞こえてきた。
 振り返ってみれば、そこには高町家の良妻賢母、高町桃子の姿が。
 仕事が一段落して奥の厨房から様子を見に出てきたのだろう。

「そんな大げさな。大丈夫ですよ。これくらい、怪我のうちに入りません」

 隠していた右手を振って、まったく何の問題も無いことをアピールする。
 無駄な心配をかけまいという、新八なりの心遣いだ。
 だが、彼の気配りは、残念ながらまったくの無駄になってしまったらしい。

「あの子のことを言っているのよ。新八くんのことなら、誰も心配してないわ」

「すいません桃子さん。当たり前のように辛辣な言葉吐くのやめてくれませんか」

 そこはかとなく満足そうにサンドイッチをもそもそ食べる少女に視線を送り、桃子は言った。
 考えてみれば当たり前だ。
 16の男子の些細な怪我よりも、9歳ほどの少女の身を案じるのが大人としてごく普通の行動である。
 桃子もその例に漏れなかったというだけの話だ。
 ただ、何の悪気も無く痛烈な一言を発するのだけは勘弁してほしい。
 割とショックだったのか、新八は愛想笑いすら浮かべずに低い声で呟くように抗議をした。

「見たところ、大怪我とかはなさそうだけど……一応連れて行ったほうが良いかもしれないね」

 喉を潤すため、コップの水をちびりちびりと飲む少女を眺めて恭也は呟く。
 その表情はどこか悲しげで、憂いを帯びていて。
 ――まるで、どこか遠い景色を見ているような面持ちで。

「些細な出来事が、取り返しのつかない結果を招くこともあるからね……用心に越したことは無いよ」

「……恭也さん……」

 あまりにも真剣な声色に、思わず呆然と話を聞いていた新八は、はっとしたように
 改めて恭也の横顔を見る。
 そういえば彼自身、過去に自分たちの目の前で、そのような目にあっていたではないか。
 素直に諦めればよかった。過去のしがらみに囚われずに生きていけば、あのような事にはならなかった。
 下らない意地が、愚かしい執着心が、あのような悲劇を生んだのだ。
 そうだ、確か彼は――。

「……腐ったカニ食べて胃に穴開けた人は、やっぱ言うことが違いますね」

「あーあー聞こえなーい」

 両手で耳を塞ぎ、わざとらしく声を上げながら恭也は新八に背を向けた。
 膝を壊して剣士生命を絶たれたとか、実は右手が義手だとか、そんな重苦しい事件では断じて無い。
 なんのことはない、冷蔵庫が壊れてしまったせいで傷んだ大量のカニを、
 もったいないという理由で食してしまっただけの話だ。
 廃棄を頼まれ、積み上げられたカニ入り発泡スチロールを目の前にし、つい魔が差してしまったのだ。
 何しろ、士郎が知り合いから貰ってきたという最高級のズワイガニである。
 食い意地が張っていなくとも、いかに理性的な人間であろうとも、ついつい手が出てしまうのは無理からぬことだ。
 それでも冷静な常識人なら口に入れる前に思いとどまるだろうが。

「……というか、新八くんたちだって一緒に食べて病院送りになってたじゃないか」

「あーあー聞こえなーい」

 新八もまた、両耳を塞いでわざとらしく声を上げた。
 知らない。そんな情けなくて格好悪い事件なんて、自分は知らないぞ。
 ぷいっ、と恭也から顔を背ける。
 新八の視界の中に、無言のまま席に座る少女の姿が飛び込んできた。
 どうやら、出されたサンドイッチを食べ終わったようだ。
 物欲しげに空になった皿をじっと見つめ、唇に人差し指を押し当てるその姿が、なんとも可愛らしい。
 不意に少女が顔を上げ、彼女と新八の視線が交錯する。

「美味しかった?」

 にっこりスマイルで新八は問いかけた。
 少女は恐縮したように縮こまり、ややあって恥ずかしそうに小さく頷く。
 ふと、少女の頬に付着する、マヨネーズと卵の黄身の存在が目に入った。
 翠屋自慢のサンドイッチに夢中になるあまり、顔についてしまったことに気付かなかったのだろう。
 自身の着くテーブルの上に置かれたおしぼりを手にし、新八は席を立った。

「卵、ついてるよ?」

 そっとおしぼりを少女の頬に押し当て、丹念に拭おうとする。
 しかし突然頬を触れられた少女は当然驚き、びくりと身体を仰け反らせた。
 その拍子に、おしぼりの間から卵の黄身が、少女の洋服の襟元にぽろり零れ落ちた。
 何かの弾みで服の中に落ちてしまっては面倒だ。
 ひょい、と黄色い塊を摘み上げ、そして新八は気付いた。
 ゆったりとした首周りから覗く少女の胸元。
 服の下という意識しなければ見えない位置だったから、気付かなかったのだ。
 そこには、傷跡があった。
 目を覆いたくなるような、紫に変色したあざの様な傷跡。
 日常の生活の中では、絶対にありえないであろう傷跡。
 思わず新八は息を呑み、そのあざを注視する。
 不意に少女が新八から身体を遠ざけ、首周りを隠すように襟元を摘み上げた。
 顔を上げて見てみれば、そこには俯き加減で上目遣いに顔を赤らめ、そして視線を逸らす少女の顔。
 幼いとはいえ女の子。異性に胸元を見られるのは、やはり恥ずかしいのだろう。

「あ、ご、ごめん」

 まずいことをしたと反省。そして同時に考える。
 あんな青あざ、一体どこでできたのだろうか、と。
 まず真っ先に思い浮かんだ原因は、喧嘩だ。
 自分と会う前に、どこかの子供と取っ組み合いの喧嘩になって、その際につけられた傷なのではないか。
 だが、見た感じ少女は喧嘩などという乱暴なことをするような子供には見えない。
 それにあざができるほどの激しい喧嘩なら、腕や顔など目に見える部分にも傷があるはずだ。
 冷静に考えればありえないだろうという結論に、新八は心の中で首を振る。
 では、一体何が原因だ?
 そこで彼は思い至った。先ほどの真選組からの逃走劇だ。
 あの時、自分は彼女を抱いたまま、壁の上から落下してしまったではないか。
 一応自分自身がクッションになることで少女への被害は最小限に食い止めたつもりだったが、
 しかし壁から地面への高さは結構あった。
 もしかしたら、あの時の衝撃が原因で? まさか自分が原因で?
 そう考えると、どんどんと罪悪感が募ってくる。
 少女は相変わらず目を合わせてくれない。
 その態度が、ますます新八の焦燥感を煽る。
 やはり自分が原因なのだろうか、と。

「……あ〜……あの、恭也さん」

 ばつが悪そうに振り向く新八の額には、冷や汗がうっすらと浮かんでいた。

「こっから一番近い小児科って……どこでしたっけ?」



なの魂 〜第十幕 世の中にはソックリさんが三人は居るらしい〜



「な・る・ほ・ど〜。つまりそのはやてって子に、銀時を取られちゃったわけだ」

 目に美しい緑の囲まれた、煌びやかな洋館。
 江戸に乱立する無機質な家屋群とは一線を画す芸術的なこの建造物は、月村すずかの自宅だ。
 そこから聞こえてくる三人分の姦しい少女の話し声は、すずかと、彼女に招かれやって来た、
 なのはとアリサのものである。
 木漏れ日が差し込むテラスでゆったりと椅子に座り、三毛の子猫の肉球をもてあそびながら、
 アリサはいたずらっぽくなのはを見つめた。

「べ、別に取られたわけじゃないの! それ以前に私のものってわけでもないし、
 むしろあんなまるでダメな大人と四六時中一緒にいるはやてちゃんがかわいそうなの!」

 ガタッ、と勢い良く椅子から立ち上がり、なのはは両手を振って矢継ぎ早に反論を申し立てる。
 しかし薄く朱に染まったその顔は、アリサの言葉が図星であるということを、本人の意思とは関係なく主張していた。

「そんなこと言ってると、近いうちに取り返しのつかないことになるニャ。
 なのははもっと自分に素直になるべきニャ」
 
「だ〜か〜ら〜!」

 子猫をひょいと掲げ、両前足をぱたぱたと振って腹話術のように話すアリサ。
 ますます顔を赤くして、目に涙すらもうっすらと溜めて頬を膨らませるなのは。
 そんな彼女らを眺めてすずかは楽しそうに、しかしどこか呆れた様子で苦笑を漏らした。

「アリサちゃん、楽しそうだね……」

 その言葉を肯定するように笑顔を浮かべ、アリサはなのはに向けて、子猫の手を招き猫のように振らせた。

「まぁまぁ、照れなさんなって。心配しなくても、なのはには強い武器があるじゃない」

「……武器?」

 膨れっ面を見せていたなのはは首を傾げ、その言葉の意味を反芻する。
 武器とは一体何のことなのだろうか。
 真っ先に脳裏をよぎったのはレイジングハートのことだが、そもそも彼女らは
 自分が魔導師となったことを知らないはずだし、第一こんなところでデバイスの話が出るわけがない。
 浮かんだ考えを思考から取り除くと同時、抱いていた猫を床へと降ろしたアリサが、
 自分のか細い二の腕をぽんぽんと叩きながら、得意そうに鼻を鳴らした。

「料理よ料理! いつの時代だって、男のハートを繋ぎ止めるのは女の手料理なんだから!」

 あまりにも自信に満ち溢れた力強い言葉。
 その迫力に気圧され、反論するのも忘れて思わずなのはは首を縦に振る。

「あ……う、うん……」

「なのはちゃん、お料理上手だもんね。練習とか、いっぱいしたの?」

 尊敬の念をこめた眼差しですずかに見つめられ、なのはは照れくさそうに頬を掻いた。

「えと……うん、まぁそれなりに……」

「それって、やっぱりお家が喫茶店だから?」

「ん〜……そういうわけじゃないけど……」

 言うべきか言わないべきか、迷っているのだろう。
 もごもごと口ごもり逡巡するなのはだが、親友の期待に染まった視線を前に、
 やはり黙っているわけにはいかなかった。

「……私、ちっちゃい頃は家で一人でいることが多くて、よく銀さんが遊びに来てくれたって、
 話したことあるでしょ?」

「うんうん」

 ぽつりぽつりと綴られる言葉に、すずかだけでなくアリサも、身を乗り出して聞き耳を立てる。

「それで、いっつも私に構ってくれるお礼に、ご飯作ってあげたことあったんだけど……」

 そこでいったん言葉を区切り、なのははため息をついて、少しだけ悲しそうに笑った。

「すごくマズいって、言われちゃって……」

「うわぁ……」

「……銀時さん、容赦ないね……」

 顔をしかめ、同情と憤りのこもった声をすずかとアリサは上げる。
 その様相を見て、二人の中で大暴落する銀時の株価を何とか食い止めようと、
 なのはは慌てて言い繕う。

「で、でもでも! 銀さんちゃんと全部食べてくれたし、それに……」

 先ほどまで雨でも降りそうだった表情を綻ばせる。

「それにね……食べ終わった後に、『今度はもっと美味いモン作ってくれよ』って言ってくれて……。
 だから、ずっとずっとお料理の練習してたんだ。銀さんに、『美味しい』って言ってもらいたくて……」

 懐かしむように目を細め、なのははほんのりと頬を染めた。
 改めて聞き手二人の様子を見てみると、すずかもアリサもぽかんとした表情でこちらを見つめている。
 それに対してなのはは自嘲の笑みを返し、恥ずかしそうに頬を掻く。

「美味しいって言ってもらったこと、まだ無いんだけどね。こないだパフェ作ってあげた時も40点だったし、
 今朝もはやてちゃんと一緒にご飯作ってあげたんだけど、あんまり評判よくなくて……」

 にゃはは、と寂しそうな笑い声。
 無理をして作っているのであろう笑顔が、どこか痛々しい。
 すずかとアリサは互いの顔を見合わせ、眉根を寄せて言葉を交わした。

「ちょっと聞きまして? すずかさん。この子小学生の分際で通い妻なんてしてやがりますわよ」

「ええ聞きましたわアリサさん。ずいぶん仲のよろしいことで。しかもツンデレですよツンデレ」

「すずかちゃんまで〜! そ、そんなんじゃないもん! 銀さんがだらしないから、ほっとけないだけなんだもん!」

「そういうのを世間一般じゃぁ通い妻って言うしツンデレって言うのよ」

「言わない言わない言わない〜!!」

 姦しくも微笑ましい喧騒。
 それに混じり、フェレットがきゅーきゅーと助けを求める声を上げながら
 子猫に追い掛け回されていたことに気付く者は、誰一人としていなかった。



「……以上が今回の捜査の途中経過だ。結局、ガキの足取りはまだ掴めてねェ」

 真選組屯所。
 障子越しにうっすらと陽の光が差し込む局長室で、土方はクリップでまとめた書類を差し出し、
 淡々とそう告げた。
 彼の向かいで胡坐をかき、神妙な面持ちで報告を聞いていた近藤は書類を受け取るや、ぱらぱらと紙面をめくりだした。
 一通り報告書の内容に目を通し、今現在己が得ている情報との突き合わせを脳内で行う。
 別段新しい情報の記載がされていないことを確認すると、近藤は緊張の糸をほぐすかのように、張っていた肩を落とした。

「ご苦労だったな、トシ。……山崎の様子はどうだ?」

「ケガ自体はたいしたことねーよ。当たり所が悪かっただけだ。じきに起きるさ」

「そうか……」

 脳天に殴打を受け、気を失ったまま医務室へ搬送された部下の身を案じるが、状況は深刻ではないらしい。
 まあ相手は腕力もさほど無い少女だったのだから、当然といえば当然なのだが。
 安堵の息を漏らし、しかし近藤は再び表情を険しくして手元の書類に目を落とした。
 山崎に対して狼藉を働き、今尚自分たちの前から姿をくらませている少女。
 そして、彼女の手助けをしたひとりの青年。
 その二人に関する記述が紙面の枠内にびっしりと書き込まれ、一種の幾何学模様を描いていた。

「しかし解せんな。なぜ新八くんは、その子供の手助けを?」

 優しくてお節介焼きで、でもどこか頼りない知人の姿を思い浮かべ、近藤は首を傾げる。
 少女の側にも都合はあったのだろうが、それでも暴力を振るうというのは少々いただけない。
 おそらく、生来のお人よしである新八も、同じ感情を抱いただろう。
 それでも彼が少女に手を貸したということは、少女に並々ならぬ事情があったに違いない。
 一体その少女に、何があるというのだろうか?

「近藤さん」

 ただただ首を傾げ、熟考する近藤を呼ぶ声。
 意識を現実に引き戻された近藤の目の前では、どこかいたたまれない様子の土方が、ため息をつきながら
 胸ポケットから一本のタバコを取り出していた。

「その……なんだ。人の嗜好? 性癖? そういうのに踏み込むのは、ちょっと……」

 いつも愛煙しているタバコを咥え、しかしそれに火をつけようとせず、ぽりぽりと頬を掻いて
 土方は近藤からそっと目を逸らす。
 その言葉を聞くや、近藤は突如としてクワッと目を見開き、勢いよく畳を踏みつけ立ち上がった。

「まてトシ。お前は新八くんがロリコンだと、そう言いたいのか!? 認めん! 断じて認めんぞ俺は!」

 知人のことを幼女趣味扱いする土方に、近藤は大変ご立腹の様子である。
 というのも、志村新八は近藤が現在片思い中の女性の肉親――お妙の弟だからだ。
 こと恋愛については、将を射んと欲すればまず馬を射よの言葉を信条としている彼にとって、
 思い人の家族を奇異な目で見られるのは何よりも耐え難いことなのであった。
 とは言うものの新八の場合、今回の一件を除いても、周りがドン引きするくらいの
 重度のアイドルオタクなので、変な目で見るなというのも無茶な話ではあるし、
 近藤もそのことを理解してはいるのだが。

「確かに10年もすりゃァ別嬪さんになりそうな顔立ちだったがよ。今から唾つけとくってのは……」

 だが土方は、彼の言葉を受けてもやはり疑念を払拭しようとはしない。
 新八ならばありえない話ではない、と考えているのだろう。
 彼のその態度が、ついには近藤の怒りの導火線に火をつけてしまった。

「ふざけるな! 俺は新八くんを信じるぞ! きっと、人よりちょっと小さな子が好きなだけなんだ!」

「結局言ってること同じじゃねーか! そんな信頼いらねェ!」

 握りこぶしを作り力説する近藤の言葉は、まったくもって説得力に欠けるものであった。
 むしろこれで新八を庇っているつもりなのだとしたら、どうしようもなく頭が足りていない。
 大将のトンチキな発言に内心頭を抱えつつ、土方は声を張り上げ立ち上がる。
 繰り広げられる実も蓋も無い言い争い。
 その喧騒を食い止めるかのごとく、一人の隊士が電話の子機を片手に局長室へと入ってきた。

「局長、お電話です。矢心診療所からなんですが……」

 その一言で二人は途端に鳴りを潜め、近藤は眉根を寄せて隊士から子機を受け取った。
 矢心診療所といえば、小児科・内科を兼任する診療所で、真選組の隊士たちの定期健診で
 よくお世話になっている場所である。
 そこからかかってくる電話といえば、定期健診前に確認以外には思い当たらない。
 少なくとも、今までそれ以外の用件で電話がかかってきたことはない。
 だが、前回健診があったのは1ヶ月前。
 定期健診は4ヶ月に一度の頻度で行われているので、確認の電話などではないということは容易に想像がついた。
 いったい、何の用件なのだろうか?
 歳の割には若く見える、長く編んだ髪が印象的な診療所長の姿を思い浮かべながら、近藤は子機を受け取るのであった。