なの魂

 勢いに任せて家を飛び出たは良いものの、これから一体どうすればいいのだろうか。
 駅の改札を抜け、人で溢れる通路を眺め、自然と万事屋へ足を向けていた新八は、
 困り果てた様子でため息をついた。
 だが、こんな所で悩んでいても仕方がないと思い直し、トボトボと彼は歩道へと歩み出る。
 今日は一段と日差しが強い。
 駅の構内と比べると、その違いは一目瞭然だ。
 新八は手をバイザー代わりに額に当て、そして辺りを見渡す。
 近くでたむろしていた学生と思わしき青年達が、そしてこれから買い物にでも向かうのであろう
 主婦達が、物珍しそうに自分を――いや、自分"達"を眺めている姿が、彼の瞳に映し出された。
 刺すような視線に気づき、新八は居心地悪そうにその場から駆け出す。
 自分のような地味でぱっとしない男が、金髪の可愛らしい少女を背負って突然現れれば、
 不審なものを見るような眼差しも向けたくなるだろう。
 そんな自虐的な考えを巡らせ、新八はただひたすら歩く。
 とりあえず、この異常事態を世間様の目にあまり晒したくない。
 背中に大事に背負い込んだ少女に負担をかけぬよう、新八は慎重に人ごみの間を
 縫うように抜けてゆく。
 そうしてようやく駅前の喧騒から抜け出した彼の耳元に、遠慮がちな少女の小声が飛び込んできた。

「……あの……一人で歩けますから、降ろしてください」

「あ……ああ、ゴメン」

 あまり抑揚の感じられない、名も知らぬ少女の言葉。
 彼女の要求通りに、新八はゆっくりと少女の身体を地に降ろす。
 無言のまま見つめあう二人。
 どこか気まずい沈黙に囲まれ、少女はオドオドと目を泳がせた。
 挙動不審になる少女を見下ろし、新八は彼女の目の前にそっと屈みこんだ。
 こんないたいけな少女を、怯えさせるわけにはいかない。
 どうにか彼女に安堵感を与えようと、目線の高さを少女にあわせ、笑顔を作り、
 出来得る限り友好的に新八は問いかける。

「えっと……そういえば、まだ名前聞いてなかったね」

 しかし少女は何も答えない。
 顔を背けたまま黙り込み、時折様子を窺うように、チラチラとこちらへ視線を覗かせるだけだ。
 もしかして、嫌われているのだろうか?
 自分は無垢な子供にすら好かれないのか、と若干憂鬱な気分に浸りながらも、努めて笑顔を保ったまま
 新八は根気強く少女に話しかける。

「僕は、志村新八。君の名前は?」

 だが、新八の努力もむなしく、少女は何一つとして語ろうとしない。
 もはや打つ手なしである。
 諦めの境地に至ると共に、自然と乾いた笑いが漏れてくる。
 がっくりとうなだれ、大きくため息を吐く。
 そんな新八の背後から、何者かがトントンと彼の肩を叩いた。

「ちょっとそこの君」

「はい?」

 振り返り見上げてみれば、そこには見覚えのある黒服を着た、これまた見覚えのある地味な男の姿。

「ちょっと屯所まで来てもらおうか」

「なんでだァァァ!!」

 勢いよく立ち上がる新八と、不思議そうに様子を窺ってくる少女の顔を、
 地味な男――山崎退は、どこか困惑した表情でまじまじと見比べる。

「え、違うの? こう、『女だったら誰でも良かった。今は反省している』的なアレじゃないの?」

「なワケねーだろ! なんなんだよどいつもこいつもチクショー!!」

 あらぬ疑いをかけられたおかげで心底立腹に至った新八は、しかしふと冷静に現状を見直し、
 安堵したように胸を撫で下ろした。
 そうだ、目の前にいるのは真選組の隊士。
 つまり、武装"警察"の一員なのだ。
 警察なら、住所不定な不思議少女の相手もお手の物なはず。
 そう考え至り、新八は少女を見下ろしながら眉尻を落とす。

「ああ、でも丁度良かった。この子迷子みたいなんですよ。なんとかなりませんかね?」

「あらら、災難だったね。お嬢ちゃん、お名前は?」

 同情と哀れみの視線を新八へ向けた後、山崎は腰を降ろして少女の顔を覗き込んだ。
 眩しい金色の長い髪。
 兎のように赤い瞳。
 どこか不安そうな表情。

「……あれ?」

 ふと、山崎がいぶかしむ様に眉を吊り上げた。
 顎に手を置き、難しそうに呻き声を上げ、少女の身体を上から下までくまなく観察する。

「……お嬢ちゃん、もしかして昨日の夜……」

「おーい山崎。聞き込みの調子はどーだ?」

 突然背後から放たれた声。
 新八が振り向くと、視界のずっと向こう側で、山崎と同じ黒い服を着た男性が、
 こちらへ向けて手を振っているのが見えた。
 短く無造作に切られた黒髪。
 ぶっきらぼうに咥えたタバコ。
 見るものを畏縮させる鋭い眼差し。

「ああ、土方さん。今ちょっと気になる子を見つけたんですけど……」

 上司の声を聞き取り、山崎が振り向き立ち上がろうとする。
 ゴツン、と。
 鈍い、肉を打つ音が聞こえたのはその時だ。
 ドサリ、と声のひとつも上げず、山崎がその場に突っ伏す。
 いったい何が起こったというのか。
 状況の一切を把握できずに、盛大に大地と接吻を果たした山崎の後頭部をぼんやりと眺めていた新八だが、
 彼の頭部から赤黒い液体が流れ出ていることに気づき、我に返ったように少女の方へ視線を向けた。
 いや、まさか。
 そんなわけないよね?
 自問自答。それと同時に彼は願う。
 少女が、今尚穢れを知らぬ無垢な子供であることを。

「……あ……」

 少女の身体が震えていた。
 少女の腕が震えていた。
 彼女の手に握りしめられた漆黒の杖もまた、同じように震えていた。
 顔を青ざめさせ、倒れ伏す山崎と遠方の土方に交互に見つめていた少女が、
 はっとしたように顔を上げる。
 ほんの一瞬、視線が交錯した。
 恐れを、不安を、焦燥を孕んだ赤い瞳。
 その紅玉のように美しい瞳が、まるで心の深層に訴えかけてくるかのように潤んでいた。
 ――見ないで……私のことを、見ないで……、と。

「あ……ちょ、ちょっと!」

 血濡れの戦杖を手にしたまま、少女は駆け出した。
 新八の制止も受け入れず、ただがむしゃらに人々の往来の合間を駆け抜ける。

「……あーもう! いったい何がどーなってんだよ!」

 ぐしゃぐしゃと頭を掻き毟り、新八もまたその場から駆け出す。
 背後から聞こえてくる土方の怒鳴り声に押されるように、遮二無二少女の後を追いかける。
 行き交う人々にぶつかりそうになりながら、なんでもない段差につまずきそうになりながら。
 ふと、冷静になり考える。
 ……自分は何故、あの少女を追っているのだ?
 少女が、知人を傷付けたから?
 傷害の片棒を担いだと思われたくないから?
 ……いや、違う。
 そんな理由で、知り合いでもなんでもない子供のために、必死になるわけがない。
 無様な姿を晒しながら少女を追うのは、そんな理由のためじゃない。

(あんな悲しそうな顔を見せられて……放っておけるわけないじゃないか!)



なの魂 〜第九幕 言うは一時の恥言わぬは一生の恥〜



 少女はただひたすらに、息を切らして街路を駆け抜ける。
 血濡れの愛機は、すでに待機状態に戻した。
 あんな目立つものを持ったまま逃走を図るのは愚の骨頂であるし、そもそも墜落の衝撃で
 内部機構が故障しており、目下自己修復中である。
 形状変化はできるが本来のデバイスとしての機能が果たせないため、
 わざわざ戦闘状態で持つ必要がないのだ。
 そして何より、自分が起こした惨状の痕跡を見たくなかった。
 腕が震える。
 脚が震える。
 動悸が激しくなる。
 普段ならこの程度の距離、息切れも起こさず走ることができるというのに。
 握り締めた、三角の台座――待機形態のバルディッシュから、生暖かく不快な感触が、
 鉄くさい匂いが伝わってきた。
 嗚咽を漏らしそうになり、それをなんとか我慢して飲み込む。
 ――今よりずっとずっと幼い頃から、魔法の鍛錬を積んできた。
 撃って、斬って、潰して。
 相手は物言わぬ鉄塊。感傷を抱くはずもなかった。
 それは、母のために異形の物と戦う今となっても同じだった。
 撃って、斬って、潰して。
 それがさも当然であるかのように魔物を屠り、断末魔の声もろとも、その力を封印する。
 それが、当たり前だと思っていた。
 何かを傷付けることになど、なんの感慨も持たなかった。
 ――初めて、"ヒト"を傷付けるまでは。
 ――初めて、"ヒト"の赤い血を見るまでは。
 耳の奥に響くような、鈍い音がした。
 赤黒い飛沫が、おぞましく頬を叩いた。
 声の一つも上げずに、その男は地面へと倒れ伏した。
 脅威を目の前にし、咄嗟に打ち付けてしまった、"魔法も何も使っていない"ただの鈍器の殴打一つで。
 人の脆さを初めて知った。
 自身が繰る力の強大さを、改めて知った。
 そしてそれを、故在れば人間にすら向けようとしていた自分自身に恐怖した。
 ――初めて、何かを傷付けることを"恐い"と思った。
 今すぐにでもうずくまって、泣き出したかった。
 だが、恐怖にも勝る母への想いが、そして相棒への想いが、その考えを即座に打ち消した。
 こんなところで立ち止まったら、先ほどの男の仲間たちに捕まってしまう。
 そうなったら、母さんの手伝いをすることできない。アルフもきっと悲しむ。
 だから彼女は駆け続けた。
 走って、走って、走って。
 追っ手を撒くために、薄暗く狭い路地へと彼女は駆け込む。
 街路の喧騒から切り離された静けさと僅かに漂う腐臭は、まるで今の彼女の心境を表すかのようだ。

「……そっちは行き止まりだよ!」

 重く緊迫した空気を切り裂くように、男の声が響いた。
 焦燥を孕んだ聞き覚えのあるその声に、しかし応えることなく少女は走り続ける。
 だが、はたして彼の言葉は事実であった。
 目の前に大きくそびえる壁。
 袋に詰められたゴミや廃棄家電が打ち捨てられた袋小路までやってきた少女は、
 立ち並ぶ建造物の隙間から蒼い大空を見上げる。
 幸いにも自分は魔導士。空を飛ぶ術は心得てある。
 乱れきった心を落ち着かせようと目を伏せ、深呼吸をし、改めて空を見上げる。
 少女の身体が、宙に浮いた。
 彼女の意思とは関係なく。

「え……?」

 上擦った声を上げ、首を回す。
 短く切られた黒い髪。
 眼鏡をかけたその顔は、優しそうで、でも今は少しだけ険しい表情。
 事故で墜落してしまった自分のことを、朝からずっと傍にいて、色々気遣ってくれた青年。
 確か……そう、志村新八と名乗った男が、自身の身体を抱えている姿が、少女の瞳に映った。

「……っ。は、放して……!」

 新八の束縛から逃れるため、少女は身をよじって抵抗する。
 だが、その細い体型に似合わない腕力が、しかと少女の身体を抱きすくめる。
 ならば、少々手荒になるかもしれないが、と少女は攻撃を試みる。
 ……出来なかった。
 つい先ほどの、男が血を流し倒れ伏す姿が脳裏にフラッシュバックする。
 出来るわけがなかった。
 目の前の彼をも同じ目にあわせてしまうかもしれないと思うと、身が竦み、
 身体の節々が凍りついたかのように動かなくなる。
 このまま、自分は捕まってしまうのか。
 半ば諦めた思考の奥で、そんな考えが脳裏をよぎる。

「いいから、しっかり掴まってて!!」

 それを払拭するかのように男の声が耳の奥底まで響いた。
 小さな身体を抱えた青年は、言うが早いか近くに打ち捨てられていた廃棄家電を踏み台にし、
 眼前にそびえる壁を、懸命に登り始めた。
 いったいこの人は、何をしようとしているのだろう。
 新八の行動に奇怪なものを感じ、少女は首を傾げる。
 だが、その疑問を口に出すほどの気力は、今の彼女にはもう残っていなかった。
 精神的に疲れきった身体を新八に預け、あれよあれよという間に壁の上まで登りつめる。
 そして、さあこれから降りようかという時になって、少女らの背後から多数の足音が聞こえてきた。

「……何やってんだ、メガネ」

「んげ!? ひ、土方さん……!」

 怒りに打ち震える男の声。
 確認するまでも無く、少女にはその声の主が誰なのか分かった。
 昨日の夜、自分の前に現れたあの目つきの悪い男。
 ついさっき、殴り倒した男の上司である男。
 彼の鬼気迫る表情でも見たのだろうか。
 新八が悲鳴にも似た声を上げ、半ば反射的に身をよじらせようとする。
 それがいけなかった。
 子供一人を抱え、しかも壁の上という不安定な場所にいたせいで、バランスを崩したのだろう。
 突然彼の身体がぐらりと揺れたかと思うと、目の前の景色が回転し、次の瞬間には
 薄黒い地面が眼前に迫っていた。

「ふぶっ!?」

「ひゃんっ!」

 落下の寸前に新八が身体を捻ったおかげで、少女にはたいしたダメージは入らなかった。
 少女は思わず瞑ってしまった目を恐る恐る開く。

「おいメガネ! そのガキ連れてこっち来やがれ! 来ねーと公務執行妨害で逮捕だ!」

 壁を貫いてきた凄まじい怒声に、少女は身を縮こまらせて震えた。
 目の前には、苦虫を噛み潰したような顔で後頭部をさする青年の顔。
 二人の視線が、またも交錯した。
 青年が笑った。
 優しくて、でも真剣で。
 遠い昔の記憶に残る、母のような笑顔。

「おい、聞いてんのか!?」

 再び聞こえてくる怒声。
 それを合図に青年の表情がきゅっと強張る。
 少女を抱えたまま立ち上がり、背後の壁を見据えた青年は、大きく息を吸い込み、
 ありったけの大声で応えた。

「ご……ごめんなさァァァい!!」

 言葉と共に青年は駆け出す。
 幼子を救いにきたヒーロー……というにはあまりにも情けないその叫びは、
 だが、少女にとってはほんの少しだけ、力強く聞こえた。



 ドタバタと大通りを駆けてゆく真選組隊士たちの姿を見送り、
 薄暗い路地の一角に身を隠していた新八は、ほっと胸を撫で下ろした。

「もう大丈夫だから。恐がらなくてもいいよ」

 ほとほと疲れた笑みを浮かべ、彼は隣で体育座りをする少女を見下ろす。
 だが、少女は相変わらず黙ったまま、何も応えようとしない。
 彼女の無愛想極まりない態度にもいい加減慣れたのか、特に言及もしようとせず、
 新八はふっと息を漏らして、ゆっくりと腰を上げた。
 いつまでも同じ場所に留まっていては、むしろ危険だと判断したのだろう。
 この場から離れるべく、だが警戒心は緩めずに路地の角からひょっこり顔を出して
 大通りの様子を窺い、

「……どうして、助けてくれたんですか……」

 足元から、蚊の鳴くような呟きが聞こえてきた。
 振り返ってみても、目の前の光景は先ほどと変わらない。
 うずくまったまま身動ぎ一つしない少女の姿が、そこにあるだけ。

「君が、悲しそうな顔をしてたから」

「……え……?」

 そこに、変化が訪れた。
 新八の答えを聞き、少女が顔を上げた。
 目をぱちくりさせ、「今、なんと言いました?」と言いたげな、ぽかんとした表情で。
 まるで珍獣でも見つけたかのような、呆けた表情で。
 少女は新八の顔を見上げた。
 そしてはっとしたように、少女は新八から顔を背ける。

「……っていうのは、理由にならないかな?」

 はにかんだ笑顔で、新八は問いかけた。
 がらにも無いことを言ってしまったと自覚したのか、取り繕うような笑いを漏らして、
 恥ずかしそうに、どこか困惑したように頬を掻く。

「……よく分かりません……」

 申し訳なさそうな少女の声に、新八はますます困ったように眉尻を落とした。
 あはは、と乾いた笑いを漏らし、逃走劇でふやけきった脳髄をフル回転させて二の句を探す。
 焦りと羞恥の入り混じった彼の心境を感じ取ったのか、少女が消え入りそうな声で
 「ごめんなさい」と謝った。
 その言葉を聴いて、ようやく新八は冷静になる。
 できれば謝罪なんかより、明るい笑顔を貰いたかったな。
 そんなことを考えながら、新八は少女の傍へと歩み寄り、そして彼女の目の前で
 ゆっくりと屈み込んだ。

「それより……そろそろ名前、教えてもらえないかな?」

 子供心はデリケートだ。どんな些細なことで機嫌を損ねてしまうか分からない。
 不快感を与えないよう、出来得る限りの優しい笑みで新八は少女に再び問いかける。
 少女は顔を背けたまま何も答えようとはしない。
 何か、名前を言えない理由でもあるのだろうか。
 それならそれで、理由を言ってくれなければ何も分からない。
 新八は、根気強く少女の返答を待った。



 一方の少女はといえば、ほとほと困った様子で眉尻を落としていた。
 自分で言うのもなんだが、自分は結構人見知りをするほうだ。
 家族以外の人間に出会ったことはほとんど無いし、ましてや年上の異性など。
 戦闘時の緊迫した状況ならまだしも、平時で他人と自然に触れ合うことなんてできない。
 先ほどから黙っていたのは、別に彼を毛嫌いしていたわけではない。
 ただ単純に、恥ずかしかっただけなのだ。
 見ず知らずの人間と会話をすることが、不安だっただけなのだ。
 今だってそうだ。
 彼の顔を直視するなんて、できそうにない。
 言葉を交わしても、どうしてもつっけんどんで冷たい言い方になってしまう。
 家族以外に自分を見られるのが怖い。
 自分の名を教えるなんて、自分を知られるなんて、不安で仕方がない。
 ――でも。
 少女は逡巡する。
 彼は、自分を助けてくれた。
 得体の知れない子供に、文句を言うどころか付きっ切りで気を遣ってくれた。
 目の前で人を傷付けるという狼藉を働いたのに、それでも彼は、自分の事を護ろうとしてくれた。
 そんな人に対して、名前も教えずにずっとだんまりを決め込んでいるのは、
 失礼以外の何者でもないのではないか?
 横目でちらりと少女は様子を窺う。
 視界の中で広がる像は、逆光のせいで酷く見難かった。
 だが、先と変わらず優しく自分を見守る青年の姿だけは、はっきりと見えたような気がした。

「……あの……私……!」

 少女はついに意を決する。
 すっとその場で立ち上がり、不安を押さえ込むように胸の前に右手を置き、
 震える唇でその名を紡ごうと――。

 ――キュルキュル、と

 可愛らしい鳴き声が、少女のお腹から聞こえてきた。
 元々静かだった路地に、先にも増した静けさが訪れる。
 開いた左手でお腹をさすり、そういえば昨日の夜から何も食べていなかったな、と
 冷静な考察を終えると同時に、堪える様な笑い声が少女の耳に飛び込んできた。
 見上げてみれば、腹を抱え、口元に手を置き、身体を震わす新八の姿が。
 恥ずかしさのあまり顔をゆでダコのように真っ赤にした少女は、
 あうあうと言葉にならない声を漏らしながらその身を震わせる。
 瞳を潤ませ、膝を抱えてその場に座り込む少女を面白おかしく眺め、新八は彼女に声をかける。
 その言葉はただでさえ縮こまっている少女をますます萎縮させるのに、充分な威力を持っていた。

「……とりあえず、何か食べに行こっか?」

 少女が首を縦に振ったのは、彼女のお腹と新八のお腹が微笑ましいデュエットを奏で始めた頃だったとか。