なの魂

 雲ひとつ無い漆黒の空。
 そこに浮かぶ満月の明かりに照らされた、とあるビルの屋上に、小さな人影が佇んでいた。
 夜闇を思わせる漆黒の外套。
 露出の多い、レオタードのような魔法衣。
 二つに括られた金色の長い髪が、月明かりを反射し、煌びやかに輝く。
 その小柄な身体には似つかわしくない、妖艶な雰囲気が彼女の周りから醸し出されていた。

(……うん……大丈夫だよ。もうすぐ、戻るから)

 少女――フェイト・テスタロッサは念話を通し、相棒との連絡を取り合う。
 ひとしきり会話を終えたところで、彼女は夜空を見上げて大きく息を吐き、
 そして自身が握り締める愛機――インテリジェントデバイス・バルディッシュを見つめる。
 中世の戦士が使う戦斧を近代的にしたような外装のそれは、目玉のように埋め込まれた宝玉を静かに明滅させ、
 主人の命令をじっと待っていた。

(ジュエルシード……見つけないと……母さんのために……)

 決意を新たにするように、ぐっ、と握りこぶしを作る。
 その背後から、コンクリートを踏みしめる、二人分の足音が響いてきた。

「夜分遅くご苦労様だな、嬢ちゃん」

 バルディッシュを両手で構え、油断ならぬ目つきでフェイトは背後を振り返る。
 自分よりも、ずっとずっと背の高い大人が二人。
 真っ黒のスーツのような服に身を包み、腰から剣を下げた、二人の男だ。
 近づいてくる男たちに対し、フェイトは距離を開けようと、無言のままじりじりとあとずさる。

「あー……警察のモンだ。別に怪しい奴じゃねーよ」

 二人のうちの一人、目つきの悪い黒髪の男が、服の内ポケットから手帳を取り出し、フェイトへ向けた。
 なおも警戒を緩めぬまま、男たちを睨みつけるフェイトの姿に、黒髪の男は困ったようにため息を漏らした。

「……ンだよオイ。アレか? 魔導師に嫌われやすいタチなのか? 俺……」

「何言ってんですかィ。土方さんの顔が怖えーから、怯えてんですよきっと」

 二人組みの片割れ、栗色の髪の青年が、黒髪の男を茶化しながら、諸手をひらひらさせてゆっくりとフェイトへと近づいてくる。
 敵意は無い、ということだろうか。
 抱いていた警戒心をようやく僅かに緩め、フェイトは構えた愛機の先端を下げる。

「最近、この辺で魔導師が魔法を無分別にぶっ放す事件が起きててね。現場の近くで、嬢ちゃんくらいの年頃のガキを見かけたって報告が
 入ってるんでィ。よかったら、ちょいと話を聞かせてもらいてェんだが……」

 そう言ってにこやかに近寄ってくる男。
 彼の肩にかけられたものを見て、フェイトは再び緊張の糸を張り詰めさせた。
 黒光りする、鋼鉄の砲身。
 それはバズーカ砲であった。
 そんな物騒なものを担いで、お話聞かせても何もあったものではない。
 そして今しがた彼が言っていた、魔法をぶっ放す魔導師。
 あれはきっと、自分のことだろう。
 この世界に来てから目立った行動はしていなかったつもりだが、きっと住民に目撃されてしまっていたのだ。
 だとすれば、間違いない。
 彼女の中で抱かれえていた予想が、徐々に確信へと変質していく。
 ――私を、捕まえる気だ!
 そう思った次の瞬間には、すでにフェイトは行動を起こしていた。
 バルディッシュを両手で構えなおし、その先端を男たちへと向ける。
 金色の魔法陣が彼女の足元に展開され、バルディッシュを囲むように、環状の魔法陣が幾重にもなって展開される。

「オイ、お前なにを……!」

 黒髪の男が手を伸ばしてフェイトを制止しようとする。
 しかし、彼女はその言葉には従わず、返答代わりにバルディッシュの先端から強烈な光をほとばしらせた。
 いわゆる目くらましだ。
 男たちが顔を覆って怯んだのを確認すると、フェイトはその場から飛び上がり、全速力でビルから離れようと身を翻す。
 同時に、バルディッシュから警告音が放たれる。
 空中で咄嗟に身体をかがめると、一瞬遅れて彼女の頭上を、大きな黒い塊が音を立てて飛び去っていった。
 そのことに驚く暇も無く、再びバルディッシュからの警告。
 回避しきれないと判断したフェイトは左腕を突き出し、眼前に防御障壁を展開した。
 障壁から火花が飛び散り、貫通した衝撃がフェイトの小柄な体を襲う。
 1発、2発、3発。
 その全てを受け止めたところで、暴力的な連撃の雨が鳴りを潜めた。
 この機を逃すまい、とフェイトは障壁を消滅させ、残った魔力の全てを推進へと回す。
 余剰魔力で形成された金色の尾をひきながら、全速力でフェイトはその場から逃げおおせるのであった。



 カチカチと引き金を鳴らし、口惜しそうに沖田は奥歯を噛み締めた。

「……チッ、弾切れか」

 言うが早いか、肩に担いだバズーカの後部に差し込まれたカートリッジを引き抜き、腰に携えていた予備弾装を
 乱暴に給弾口にねじ込む。
 レティクルを覗き、先の魔法少女が飛んでいったであろう方角へ砲口を向け……。

「やめとけ。射程外だ」

 土方の言葉で冷静になったのか、舌打ちをしてバズーカを肩から下ろし、沖田は苦々しく夜空を見上げ、そしてため息をついた。

「土方さん。この装備で魔導師の相手すんのは、そろそろ限界ですぜ」

 バズーカの砲身を叩き、眉尻を落として沖田は言葉を漏らす。
 その言葉があまりに意外だったのだろう。
 土方が咥えようとしていた煙草を取り落とし、口を半開きにして沖田をまじまじと見つめだした。

「珍しいじゃねーか。お前が弱気になるなんてよ」

「弱気じゃねーですよ。現実的なこと言ってんです俺ァ」

 わしゃわしゃと自身の頭を掻いて、思案に暮れた様子で沖田は言葉を続けた。

「実際問題、こないだのデパートでボコボコにされてたじゃねーですかィ、ウチの連中。辞表出してくる奴もいたくらいですぜ」

 彼にしては珍しい真剣な話題に、土方も釣られるように顔をこわばらせて、新しく取り出した煙草に火をつけながら考えにふける。
 確かに、前回シグナムたちが巻き起こした騒動で、真選組の隊士たちは、主に精神面において深い傷を負っていた。
 根性無しと切り捨てるには、あまりにも隔絶した力の差。
 隊長格である自分たちですら、認めたくは無いが、手加減をされてようやく対等に戦えたくらいだ。
 自分たちの下につく隊士たちが突きつけられた現実は、あまりに暗く、深いものであったことだろう。

「そうだな……」

 根底のレベルで差がついた力を覆そうとも、もはや努力だけではどうしようもない。
 ならば装備の拡充しかあるまい。
 相手がどれだけバケモノ染みた力を持っていようと、その力の差を埋めるだけの得物を得るしかあるまい。

「一度、近藤さんに進言してみるか……」

 燻らせた煙が夜風に吹かれ、ゆらゆらと月明かりに照らされ、消えていった。



 ネオンに照らされる町の喧騒が、月の浮かぶ夜に寂しく響く。
 飛行機能を有した自動車が空を飛び交い、発生する風にあおられて、フェイトはその小さな身体をよろめかせた。
 先ほどのスタン弾によって痛めた左腕を押さえ、フラフラと危なげに宙を彷徨う。
 苦痛に顔をゆがめ、何処か身を隠せるところは無いかとフェイトは眼下を見渡した。

(フェイト……フェイト? 聞こえてる? 大丈夫?)

 大事な相棒の心配そうな声が、不意に脳内に響いてきた。
 先ほどまで会話を交わしていたのに、唐突に応答がなくなったから、心配をしたのだろう。
 会話に夢中になり、背後からの気配に気付かなかった自分の不甲斐なさを情けなく感じ、
 しかし勤めて平静を装って、フェイトは言葉を返す。

(うん……ちょっと考え事してただけ。心配しなくても――)

 ――心配しなくても、すぐに戻るよ。
 フェイトがそう伝えようとした、その瞬間だった。
 不意に彼女の視界が、一面の白に染まった。
 同時に聞こえてくる耳をつんざくクラクション。
 思わず身を縮こまらせ、そして反射的に防壁を張ったフェイトの身体を、恐ろしいまでの衝撃が襲った。
 肺に溜め込まれた空気が一気に吐き出され、脳が後頭部から飛び出たような錯覚すら覚える。
 町の明かりが、夜空の星々が、視界の中でグルグルと回った。
 しかしその風景も瞬く間に真っ白に染まり、その白は彼女の意識の奥底まで侵食し始める。
 防壁を張っていたのが、不幸中の幸いだった。
 酔っ払いの駆る自動車にはね飛ばされたフェイトは、蹴飛ばされたボールのように宙を舞い、
 闇夜の町へ静かに落ちていった。



なの魂 〜第八幕 時間にルーズな人間にロクなやつはいない〜



 すずめ達が仲良く空を飛び交い、町に活気が出始めた頃。
 繁華街から少し離れた町の一角にぽつりと建つ、古びた小さな武家屋敷から、しとやかな女性の声が聞こえてきた。

「新ちゃ〜ん、いつまで寝ているつもりなの〜? 早く銀さんの所に行かないと、お給料引かれちゃうわよ〜?」

 『恒道館道場』と書かれた小さな木札が掲げられたその屋敷は、志村新八の住居だ。
 そして先ほど聞こえてきた声の主は、新八の姉、妙である。
 知り合いからは『お妙さん』と呼ばれ親しまれている彼女は、長い長い廊下を渡り、とある一室の前に立つ。

「新ちゃん、もう朝よ? 早く起きなさい」

 締め切られた襖の前で、お妙は困ったように頬に手を当てた。
 そう、普段のこの時間ならとっくに職場に向かっているはずの弟、新八が、珍しく朝寝坊をしているようなのだ。
 先日夜遅くまで知り合いと剣の稽古をしていたらしいが、その時の疲れが溜まっているのだろうか。
 何度も何度も部屋の外から呼びかけてみるが、しかし新八からの返答は一切返ってこない。
 せいぜい、息苦しそうな呻き声が聞こえてくるくらいだ。
 このままでは埒が明かない。
 ねぼすけな弟を起こすために、お妙は部屋の襖をゆっくりと開ける。
 部屋一杯に所狭しと並べられたアイドルグッズ。
 申し訳程度に飾ってある木刀と真剣。
 そして部屋の真ん中、狭っ苦しそうに敷かれた布団の上で眠る、ちょっと頼りない弟の姿。
 そして……。

「あ……」

 "それ"を見て、思わずお妙は声を上擦らせた。
 仰向けになり、苦しそうに眉根を潜めて眠る新八の胸の上。
 黒一色に赤のラインが添えられた、ゴシック系の可愛らしい服。
 月を思わせる美しく長い金色の髪。
 すぅすぅ、と聞こえてくる小さな寝息。
 なんとも可愛らしい異人の少女が、新八に覆いかぶさるように眠りについていたのだ。

「……あら、可愛い」

 まるで兄妹のような微笑ましい光景に、お妙は頬を緩ませ新八の傍へ座り、

「ってンなワケあるかァァァァァ!!」

 豪快に敷布団を引っぺがし、大地を揺るがすような怒号を発した。
 力任せに叩き起こされ、鼻っ面をしたたかに壁にぶつけ、新八は涙目になって裏返った声を上げる。

「ななな何ィィ!? いきなりなんですか姉上!! っていうかこの子誰!?」

 だらだらと流れ出る鼻血を左手で受け止め、困惑しきった様子で新八は姉を指差し、
 そしてすぐ傍に転がる少女を見下ろす。
 長い金髪を二つ括りにした、なのはと同い年くらいの少女――フェイトは、眠そうに眼をこすり、
 夢うつつで新八を見上げた。
 うー、と小さく鳴き声を上げ、鼻血を垂れ流す青年と、般若のように怒り狂った女性を見比べ、
 フェイトは不思議そうに首を傾げる。

「とぼけてんじゃねーよテメーが連れ込んだんだろーがァァァ! 女だったら誰でもよかったのかァ!
 穴があったら何でもよかったのかァ!!」

「姉上ェェェ! 落ち着いてください! はしたないです!」

「つべこべ言わずに……さっさと元に戻してこォォォい!!」

「は、はいィィィ!!」

 無垢な少女の目の前で繰り広げられる、口撃による醜い蹂躙。
 反論の余地すらありえない程に猛り立つ姉の姿に、もはや弁解は不可能だと新八は悟ったのだろう。
 取るものも取らずにフェイトを小脇に抱え、転がるように自室から飛び出す。
 どたばたと遠ざかる騒々しい足音。
 それがやがて、再び部屋の方へと近づいてくる。
 脂汗を垂らしながら部屋に飛び込んだ新八は、枕元に置かれていた着替えとメガネを取ると、
 先ほどと同じように全力疾走で部屋を飛び出していった。
 脱兎の如く逃げ出した弟の背中を見送り、ようやく冷静になったのか、
 肩で息をしていたお妙は額を押さえて大きくため息をついた。

「……そっか……新ちゃんも、そんな年頃なのね……」

 遠い昔、無邪気に自分とままごとなどをしていた頃の弟の姿を思い出し、懐かしむように彼女は呟く。
 そうか。彼はもう、自分の手の届かないところに行ってしまったのか。
 あんな小さな子供に手を出すようになってしまったのか。
 弟の間違った成長を嘆き、彼女は天を仰ぎ、あの世にいるであろう父に助けを請う。
 父上、私は一体どうすれば良いのでしょうか、と。

「……あら?」

 そして彼女は気付く。
 新八の部屋の天井に、空まで貫く穴が開いていたということに。
 それが、小さな魔法使いの来訪の痕跡なのだということなど、彼女には知る由も無かった。



 階下は既に常連客の来訪で盛況し、店先の道は主婦達の往来で活気付いていた。
 しかしここ、『万事屋銀ちゃん』からは、活気どころか生気すら感じることも出来ない。
 午前中とはいえ、あまりにも静か過ぎる玄関前。
 締め切られた引き戸が、あらゆるものの訪れを拒絶するかのように、不気味な威圧感を漂わせる。
 しかし、その不穏な空気にも負けず、玄関前に佇む少女が一人。
 目一杯に背を伸ばし呼び鈴を鳴らした少女は、気もそぞろな様子で胸の前で指を弄ばせる。
 ややあって、引き戸の向こう側から、のらりくらりとした足音が響いてきた。
 がらりと音を立てて扉が開き、一人の男が姿を見せる。
 寝癖なのか元からなのか分からない、うねりにうねった白い髪。涼しそうな紺色の寝巻き。
 どうやら起きたばかりらしいその男――銀時は、奥歯が見えるくらいに大きく口を開け、あくびを漏らした。

「おはようございます! 銀さん!」

 そんなだらしのない彼の姿を認め、しかし少女――なのはは、二つ括りにした髪を
 愛嬌たっぷりにぴょこぴょこと揺らし、嬉しそうに笑みを零す。
 だが、心躍らす少女の機嫌は、次の瞬間には粉々に砕かれてしまった。
 寝ぼけ眼をこすっていた銀時が、うっとうしそうにため息を漏らし、無言のまま
 玄関の戸を閉めてしまったのだ。
 しかも鍵をかけるというおまけ付き。

「金なら、もうねーって言ってんだろ」

 ぽかん、と閉められたガラスの引き戸を眺めていると、気だるそうな銀時の声が聞こえてきた。
 だが、なのはは別に金銭絡みの話をしにきたわけではない。
 ぷぅ、と頬を膨らませ、なのはは乱暴に玄関を叩き始める。

「ち、違います〜! 今日は家賃のことじゃないんです〜!」

 せっかくの休日に訪ねてきたのに、こうも冷たくあしらわれては、へそを曲げてしまうのも無理はない。
 というか、休みの日にまで家賃を取り立てに来るような冷酷な女だと思われているのだろうか、自分は。
 そう思うと、腹立たしくなると同時に物悲しくもなってくる。
 ドンドン、ドンドンと戸を叩くも、しかし中からは一切の返答は返ってこない。

「……本当に、違うのに……」

 ぽつりと力無く呟き、玄関を叩くのをやめ、なのははその場で俯いたまま佇む。
 返ってくる言葉は、何も無い。
 もうとっくに玄関から離れ、部屋の奥に引きこもってしまったのだろうか。
 う〜、と恨めしそうに玄関を睨み、捨て台詞に「銀さんのバカ……」と残し、なのはは
 がっくりと肩を落として万事屋に背を向ける。

「誰がバカだ、誰が」

 ガチャリ、と鍵の開く音。
 変わり身早く、期待の込められた微笑でなのはが振り向けば、面倒くさそうに頭を掻き、
 窺うように玄関から顔をのぞかせる銀時の姿があった。

「ったく、暇さえあればウチに来やがって。ちったァダチと遊んでみたりしたらどうだ?」

「えっと……今日は、そのことでお話しがあって……」

 トコトコと彼の元へ駆け寄り、手を後ろに組んで、はにかんだ笑顔で銀時を見上げる。
 いつにも増して機嫌の良いなのはの姿を不審に思い、銀時は首をかしげて、警戒するように腰を引いた。
 なんだ? もしかして借金に付け込んでタダ働きでも強要するつもりか?
 彼女の家族から何度かそのような仕打ちを受けたため、どうしても憂慮をしてしまう銀時だが、
 しかし彼の考えは杞憂に終わることとなる。

「今日、アリサちゃんとすずかちゃんと、一緒にクッキー焼く約束してるんです。
 だから、あの……よかったら、銀さんも一緒にどうかな〜、なんて……」

 モジモジと身体を揺らし、上目遣いでなのはは銀時を見つめた。
 その姿はどこか頼りなさげで、父性をくすぐるように愛らしい。
 だが、銀時の反応はあまり芳しくないようだ。
 口を一文字に結んだ彼は、曲がりくねった白髪を掻き、バツが悪そうにむー、と声を漏らしなのはを見下ろす。

「あ、あのあの! 銀さん、お菓子作るの上手じゃないですかっ!
 だから、その、いろいろ教えてもらえたらいいな〜って思って、その……」

 もしかして、知らぬ間に彼の機嫌を損ねてしまっただろうか。
 自分に非があるものだと思い込み、なのはは手をパタパタと振って、慌ててその場を取り繕おうとする。

「あー……悪ィ。今日仕事だわ」

 あっけなく放たれたその言葉の意味は、もはや租借するまでもなく明白だった。
 振り絞った少しの勇気が、まったくの無駄に終わってしまったことを理解し、なのははまるで
 枯れた花のようにしゅんとうなだれた。
 二つに結わえた可愛らしい髪も、叱られた子犬の尾のように、情けなく垂れ下がる。

「お仕事って……はやてちゃん、ですか?」

 ついこの前――デパートの騒動で銀時に助けられたあの日の夜。
 真選組と共に現れた車椅子の少女を思い浮かべ、なのはは問いかけた。
 寂しそうに、不安そうに、何かを訴えかけるかのように、彼女は銀時の瞳を見つめる。

「あ? ……あァ、そーだけど」

 だが、まるで隠す素振りも無くあっさり返ってきたその答えに、なのはは落胆の息を漏らして再びうなだれた。
 もやもやとした感覚が胸の中で渦巻き、それが喉の奥を通るような錯覚を感じる。
 不意に、あの少女の面影が脳裏に浮かぶ。
 小柄で、おとなしくて、関西弁で、別れ際の笑顔がとても眩しかった、あの少女。

(八神、はやてちゃん……か……)

 なのはにとって、銀時は彼女が小学校に入る前からの知り合いだ。
 大怪我をして打ち捨てられていた彼を、母が、兄が助けたのが事の馴れ初めだ。
 一命を取りとめた後、何をするでもなく翠屋の二階で居候をしていた彼は、事あるごとに自分の元を訪れた。
 父が事故で大怪我をして長期の入院を余儀なくされていたため、母と兄は喫茶店の経営を、
 そして姉は、付きっ切りで父の看病を。
 そうした境遇で、家で一人で過ごすことが大半だったなのはにとって、銀時はいわば、
 心のオアシスとも言うべき存在であった。
 暇つぶしと称して与太話を聞かせてくれたり、遊び相手になったりしてくれた。
 毎日のように手土産にお菓子を持ってきて、炊事洗濯などの家事一般や、家電製品の簡単な修理も行ってくれた。
 「ぎんさんって、なんでもやさんみたいですねっ!」
 なんでもそつなくこなす彼の姿を見て、尊敬の眼差しを向けて口にした言葉が、
 彼が万事屋を始めるきっかけになったことは、今でも鮮明に覚えてる。
 「ぎんさん、いつもありがとう!」
 いつも彼は自分の傍にいてくれた。傍にいるのが、当たり前と思えるくらいに。
 父が退院してからは、あまり家に来てくれなくなったが、それでも時折お菓子を片手に
 仕事の愚痴をこぼしに来てくれていた。
 なのはにとって、銀時は傍にいるのが当たり前な存在。いなくてはならない存在。
 それが、ついこの前まで名前も知らなかった少女にかかりっきりになっている。
 この状況を愉快に思えるはずがない。
 大人びた子、と近所では評判のなのはだが、それでもやはり、まだ9歳の少女なのだ。

「そうですか……わかりました……」

 己の胸の内で渦巻くものが幼い嫉妬心であるということにも気づかぬまま、
 なのははがっくりと肩を落として銀時に背を向けた。
 哀愁を漂わせ、トボトボと階段へ向かい、そして彼女は階下から足音が響いてくることに気付く。
 コン、コンと安物のステンレスの階段を踏みしめる音。
 階段を上りきったのか、その足音は唐突に鳴りを潜めた。
 と、同時に。

「銀ちゃ〜ん! なのはちゃ〜ん! おはよ〜!」

 聞き覚えのあるその声に、思わずなのはは顔を上げ、そして視線の先に佇む来訪者の姿を目の当たりにし、
 目をまん丸にして息を漏らした。

「はやて……ちゃん?」

 短く切られた栗色の髪。
 くりくりとした、愛らしい瞳。
 人形のように真っ白な肌。
 噂をすればなんとやらだ。
 通路の向こう、階段を昇りきってすぐのところで、ウェーブのかかった金髪の女性に抱きかかえられたはやてが、
 小さな手を懸命に振って、元気一杯に愛嬌を振り撒いていた。

「おはようございます。銀時さん、なのはちゃん」

 はやてを抱え、銀時の傍まで歩み寄ってくる女性――シャマルもまた、ニッコリと微笑んで挨拶をする。
 彼女が身に纏うベージュを基調にした素朴な服装が、淑やかな雰囲気と相俟って、
 どこか牧歌的で優しい印象を与える。

「お前らこんなトコでなにやってんの?」

「何って、銀ちゃんがなかなかこーへんから、迎えにきたんやんか〜!」

 眠そうにあくびを漏らして素っ頓狂な問いかけをする銀時に立腹し、はやてはぷぅ、と頬を膨らませて
 彼に抗議を申し立てる。
 しかし銀時は耳を塞いで、「あーあーそうですね俺が悪ぅござんした」と言うだけだ。
 謝るつもりもなければ、時間通りに家に来なかったことを反省するつもりもないらしい。
 こっちは「もしかして来る途中に事故にでもあったのでは?」と心配していたというのに、なんて対応だ。
 ふくれっ面で銀時を睨みつけ、しかしこれ以上言っても無駄だと判断したのか、
 続く言葉を紡がずにため息を吐く。

「……あれ? そういえば、神楽ちゃんと新八さんは〜?」

 いつも銀時にくっついている二人の助手の姿がないことに気付き、はやては銀時の肩越しに、
 ひょいと万事屋の中を窺い見る。

「新八ならまだ来てねーよ。神楽は……」

「……銀ちゃん……」

 家の奥から、間延びした少女の声が聞こえてきた。
 玄関から伸びる廊下の奥、事務室の入り口に目を向けてみれば、ずるずると何かを引きずり、
 大きなあくびを漏らす少女の姿が視界に入った。

「銀ちゃん〜……おなかすいたアル。はやくご飯用意して欲しいネ」

 寝癖で暴れ放題になった朱色の髪を揺らし、鼻ちょうちんを膨らませた寝巻き姿の神楽が、
 毛布を引きずり目を擦りながら、のそのそと玄関先までやってきていた。

「うるせーよ。パンの耳でもかじってろ」

 うとうと、ふらふらと千鳥足を踏む神楽にひらひらと手を振り、うっとうしそうに銀時は言葉を投げる。
 しかし、神楽には彼の言葉が聞こえていなかったのだろうか。
 彼女はうーうー唸りながら銀時の傍までやってきて、糸の切れた人形のように、銀時の背中にもたれかかった。
 ちょうちんを膨らませた鼻を、銀時の寝巻きに押し付けて。

「てめっ、バッチィもんつけてんじゃねーよ!」

 及び腰になり上擦った声をあげ、神楽を引き剥がそうと銀時は彼女の頭をつかむ。
 しかし神楽は寝ぼけているのか、両腕を銀時の腰に回し、そのまま離れようとしない。
 そして聞こえてくる鼻をかむ音。
 さすがに銀時も我慢の限界に来たのか、こめかみに青筋を浮かべて眉をひくつかせる。
 そんな二人の姿を見つめ、はやては小首をかしげた。

「銀ちゃん、まだご飯食べてへんの?」

「そーだよ。だからちょっと待ってろ」

 その言葉を聞いた途端、はやての顔に向日葵のような笑顔が咲いた。

「せやったら、私が銀ちゃんのご飯作ったげる〜!」

 諸手を挙げて、嬉しそうにはやては提案する。
 目をきらきらと輝かせる彼女の姿は、歳相応に無邪気で愛くるしい。
 はやての唐突な申し出に、銀時は思わずぽかん、と彼女の顔を見つめる。

「……いーよ別に。気持ちだけ受け取っとくさ」

 ようやく神楽を引き剥がした銀時は、ふっ、と息を漏らし、ぽんぽんとはやての頭を撫でた。
 普段は滅多に見ることのない、どこか嬉しそうな銀時の表情。
 はやても釣られるように表情を綻ばせ、くすぐったそうに身を縮こまらせる。
 その様相を、面白くなさそうに見る者が一人。
 眉根をひそめ、今にも雨が降り出しそうな表情では銀時を、そしてはやてを見上げるのは、
 誰であろうなのはであった。
 だが、彼女の子供らしい嫉妬に気付く者は、残念ながら、今のこの場には一人として存在しなかった。

「遠慮せんでもええんよ? いっつもお世話になってるお礼や〜!」

 相も変わらず眩しいくらいの満面の笑みを、はやては浮かべる。
 期待に溢れた瞳で見つめてくるその姿を見ていると、無碍に断るのが申し訳なく思えてくる。

「……そうか? んじゃ、お言葉に甘えるかね」

 たまには、人の厚意を素直に受け取ってみるのも悪くないかもしれない。
 再び眠りについた神楽の襟首を掴みあげ、銀時ははやてとシャマルを家の中へといざなった。
 お邪魔します、と遠慮がちにシャマルは玄関の扉をくぐり、はやては物珍しそうに家の中を見渡す。
 その二人の背後から、慌てた様子でなのはが銀時の背を追う。

「わ、私も! 私もご飯作ります!」

 きゅっ、と銀時の寝巻きの裾を掴み、焦燥に駆られたような声を上げる。
 銀時は不思議そうに首をかしげ、訴えかけるようななのはの瞳を見つめて眉根をひそめる。

「あ? 何言ってんだよ。お前は友達ん家行くんだろーが」

「い、いいんです! まだ約束の時間までいっぱいあるから、大丈夫なんです!」

 銀時から目をそらし、なのははグイグイと彼の腕を引っ張って事務室へと向かう。
 ご機嫌麗しくない少女を見つめ、銀時とはやては、ただただ不思議そうに首をかしげるだけだ。
 ただ一人、シャマルだけが、微笑ましそうになのはの姿を見守っていた。