なの魂(旧版)

「ぶふォ!!」

彼、土方十四郎の夜の仕事は、咀嚼していたせんべえを噴出すことから始まる。
ここは海鳴臨海公園から程近い場所に存在する埠頭。
日も落ち、闇が辺りを支配するその場所は、ただ二つの例外を除いて静けさだけが辺りを支配していた。

「んがァァァァァ!! なんじゃこりゃぁぁ! 水っ……水ぅぅ!!」

高く積み重ねられた大型コンテナの上で、土方は喉を押さえて枯れた声を絞り出す。
四つん這いにくず折れる土方の隣では、何故か髪型を爆発ヘアーにした山崎が、
真っ赤なせんべえが満載された菓子受けを片手に、

「差し入れです。沖田さんの姉上様の"激辛せんべえ"」

「山崎てめェェェェェ! なめてんのか!! つーかなんでアフロ!?」

昼間に不審な少女達に煙に巻かれ、限界ギリギリまで迫っていた土方の不機嫌度は、山崎の一言で
あっさりとメーターを振り切った。

「俺に怒らんでください。怒るならミツバ殿に」

沖田の理不尽な砲撃の産物であるアフロヘアーに関しては何も応えず、山崎は双眼鏡を覗きながら諭すように言う。
その一言が影響したのかは知らないが、土方は黙り込み、バツが悪そうに懐から取り出したタバコに火を灯した。

「……副長、なんで会われなかったんですか? 局長に聞きましたよ。副長と局長、そしてミツバ殿は真選組結成前、
 まだ武州の田舎にいた頃からの友人だと」

探るように山崎は問うが、土方は黙りこくったまま応えない。
質問の意図など理解しているだろうに、しかし彼はただタバコを燻らせるだけだった。
ささやかな波の音だけが響き、紫煙が二人の身体に纏わり付くように蠢く。

「不審船調査なんてつまらん仕事は俺に任せて、ミツバ殿に会えばよかったのに」

痺れを切らした山崎がようやく胸の内に抱えていた言葉を吐き出すと同時、
ようやく土方が紫煙を吹き出しながら口を開いた。

「最近の攘夷浪士達のテロ活動に用いられる武器は、モノが違ってきている。
 中には俺達より性能の良い銃火器を所有している連中もいるって話だ」

特殊警察よりも上等な装備……つまり、純然たる軍事兵器を民間で入手するなど、このご時世では容易なことではない。
だが、これはあくまで民間での話。
民間人よりも圧倒的に上の地位に君臨する者……例えば、幕府関係者などに関しては、その通りではない。
――幕府の上層部が、兵器を横流ししているのか……!
その事に気付いたのか、山崎ははっと息を呑み、しかし双眼鏡からは目を離さないまま土方に問いかける。

「副長。ミツバ殿と何かありましたか」

「ああ……押収した武器の中に、管理局製の得物もあったという報告も入っている。
 何かある。間違いねェ」

「やっぱり……! やけぼっくいに火がついたとか?」

「そうだな、火がついたら大変なことに……」

そこまで言ったところで、土方はようやく会話が変な方向へ向かっていることに気付いた。
一瞬気の抜けたような目で虚空を眺め、そしてしかめっ面をして山崎を睨みつける。

「……ん? アレ? オッ……って、んなわけねーだろ!!
 てめっ、何言ってんだ殺すぞコルァ! なんでアフロなんだお前! オイ殺すぞ!」

しかしそんな怒れる土方を華麗にスルーし、山崎はなおも双眼鏡を覗き込みながらポツリと呟く。

「ミツバ殿、結婚するらしいですよ」

「だから関係ねーって言ってんだろ! アフロ、オイ! なんでアフロなんだよ殺すよホントッ!!」

「相手は貿易商で、大層な長者とか。玉の輿ですなぁ」

「知るかよ! なんだよ「ですなぁ」って。イチイチ腹立つなコイツ」

もう何を言っても無駄だと判断したのか、土方はブツブツと文句を垂れながらタバコをコンテナに押し付け、
それが極自然なことであるかのように菓子受けのせんべえに手を伸ばす。

「ったく、監察がくだらねー事ばっか観察してんじゃねーよ。大体なんでアフロなんだよ。コイツ腹立つわ〜、アフロ」

「副長! あれ!」

相も変わらず文句を垂らし続ける土方が盛大にせんべえを噴き出すのと、
山崎が声を張り上げて双眼鏡に写りこんだ風景を指差すのは、ほぼ同時であった。



なの魂 〜第二十九幕 「当たり前」ほど尊いものはない〜



「今日は楽しかったです」

「そーちゃん、色々ありがとう。また近いうちに会いましょう」

虫の音が優しく響き、朧月の光が幻想的に降り注ぐ。
目一杯に秋を主張するその夜道から、一組の男女の話し声が聞こえてきた。

「今日くらい、ウチの屯所に泊まればいいのに」

街灯と僅かばかりの月明かりに照らされ、目の前の女性を引きとめようと沖田は言う。
しかし女性――ミツバは困ったような表情を浮かべ、申し訳なさそうに微笑んだ。

「ごめんなさい、色々向こうの家でやらなければならない事があって」

そう言って件の嫁ぎ先――彼女の背後に建つ、老舗の旅館のような巨大な屋敷の門へ目を配る。
月光のように儚い笑みを浮かべる彼女に、沖田は少し寂しそうに視線を落とした。
そんな彼の隣に立つのは一組の男女――銀時とシグナム。

「坂田さんもシグナムさんも、今日は色々付き合ってくれてありがとうございました」

その二人に、今日一日街の案内などに付き合ってもらったことに対する謝礼をミツバは告げる。

「あー、気にすんな」

「何か御用があれば、いつでもお伺いしますよ」

銀時は特に気にも留めていない様子で、シグナムは恐縮するようにそう言葉を返す。
そんな何の変哲も無い会話でさえも、ミツバは楽しそうに受け答えし、そして屋敷の方へと足を向け……

「あっ……そーちゃん」

不意に、彼女は足を止めた。
目の前の門に手をかけ、そして僅かばかりの逡巡。
何度か声にもならない言葉を小さく口ごもり、そして意を決するかのように、ぽつりと呟く。

「……あの……あの人は……」

どこか落ち着かない様子で俯くミツバに、しかし沖田から返ってくる言葉は無い。
じゃり、と地面を踏みしめる音と共に足音が近づき、そしてその音はミツバの目の前で止む。

「野郎とは会わせねーぜ」

遠くからの車のエンジン音と虫の音だけが響く中、沖田は静かにそう告げた。
どこか険のある、冷たく突き放すような言い方だった。

「今朝方も、なんにも言わずに仕事にでていきやがった……薄情な野郎でィ」

沖田の物言いに顔を上げたミツバは、しかし彼には何も言わぬまま黙り込む。
俯き、前髪に隠れた沖田の表情を窺い知ることは出来ず、彼もまた何も言わぬまま、
朧月に照らされた夜道の闇に溶け込むように歩を進める。
その背中が消え行く様を、ミツバは何も言わずにただじっと見つめるだけだった。

「……仕事……か……。相変わらずみたいね」

目の前に広がる闇を見据え、ミツバは誰に言うでもなくポツリと漏らす。

「オイオイ、勝手に巻き込んどいて勝手に帰っちまいやがった」

唐突に聞こえてくる言葉。
思わず声のした方を振り向けば、そこには面倒くさそうに頭を掻く銀時と、
少しバツが悪そうに銀時をなだめようとするシグナムの姿があった。

「ごめんなさい、我が儘な子で」

銀時の言葉に何かしら思うところがあったのか、ミツバは申し訳なさそうに頭を下げる。

「……私のせいなんです。幼くして両親を亡くしたあの子に、さびしい思いをさせまいと甘やかして育てたから……。
 身勝手で頑固で負けず嫌いで。そんなんだから、昔から一人ぼっち……友達なんて、一人もいなかったんです」

その言葉に、シグナムは普段の屯所での沖田の様子を思い返す。
誰とつるむこともなく、どこか浮世離れをしたような言動で周りを掻き回す沖田の姿を。
誰かを引き寄せることも無く、自ら歩み寄ることも無く、自分の世界に浸る沖田の姿を。

「近藤さんに出会わなかったら、今頃どうなっていたか……今でもまだ、ちょっと恐いんです。
 あの子、ちゃんとしてるのかって……」

どこか思いつめた表情でミツバは呟く。
その様子を、シグナムはただ黙って見ているしかなかった。
誰一人として言葉を発することなく、虫の音だけが響く夜の中で、刻々と時間が過ぎてゆく。

「ホントは……あなた達も友達なんかじゃないんでしょ?
 無理やり付き合わされて、こんな事……」

不意に顔を上げ、ミツバはそんな言葉を呟く。
そんなことはない、とシグナムは否定しようとするが、しかしそれよりも先に、銀時がぶっきらぼうに頭を掻きながら、

「アイツがちゃんとしてるかって? してるわけないでしょ、んなもん。
 仕事サボるわ、Sに目覚めるわ、不祥事起こすわ、Sに目覚めるわ。
 ロクなモンじゃねーよ、あのクソガキ。一体どういう教育したんですか」

「銀時殿……!」

まったく歯に衣着せぬその物言いに、思わずシグナムは顔をしかめて銀時を睨んだ。
しかし、銀時は彼女の抗議など意にも介さずに、

「友達くらい選ばなきゃいけねーよ。
 コイツならともかく、俺みたいのと付き合ってたらロクな事にならねーぜ、おたくの子」

シグナムを親指で指しながら、ため息混じりにそんなことを呟いた。
唐突に放たれたその言葉に、シグナムは目を丸くしてぽかんとする。
くすくす、と控えめな笑い声が聞こえてきたのは、その時だ。

「あ……」

間の抜けた顔のままシグナムは声のした方へ振り向く。
先程とはうって変わって、まるで儚く揺れる百合の花のように美麗な笑みを浮かべたミツバがいた。

「……おかしな人。でも……どうりで、あの子がなつくはずだわ」

柔らかな物腰、そして表情で銀時を見つめ、そしてどこか懐かしげに、ミツバはそっと目を伏せる。

「なんとなく、あの人に似てるもの」

「……あ?」

ミツバが呟いたその一言の意味を汲むことが出来ず、銀時は訝しげにミツバを見る。
言葉の真意を問おうと銀時はミツバに声をかけようとするが、しかしその直前、突如として聞こえてきた車の走行音と共に、
三人の周りが眩い光に包み込まれた。
ややあってブレーキ音と共に彼らのすぐ側に一台にパトカーが止まる。

「オイ、てめーらそこで何やってる?」

どこか不機嫌そうな声と共にパトカーのドアが開き、中から一人の男が出てくる。

「この屋敷の……」

そこまで言ったところで、その男はまるで金縛りにでもあったかのように身を強張らせた。
右手の指に挟んでいたタバコを取り落とし、男は目を見開き絶句する。
そして同じように言葉を失い、その場に凍りつく人物がもう一人。

「と……十四郎さ……」

狼狽にも似た焦りをのような表情を見せ、ミツバは小さく声を漏らす。

「!!」

不意にミツバが自身の口元を押さえた。
そしてそのまま激しく咳き込み、くず折れるようにその場に倒れ付す。

「オイッ! しっかりしろ! オイ!!」

いの一番にミツバの異変に気付いた銀時が彼女を抱き起こそうとするが、しかし彼女は息も絶え絶えといった様子で
荒く呼吸を繰り返すだけだった。
やや遅れて事態の把握をしたシグナムもすぐさまミツバの傍へ駆け寄るが、状況は全く好転の兆しを見せない。
男――土方は、その様子を見、呆然と立ち尽くすだけであった。



「ようやく落ち着いたみたいですよ」

土方と共にパトカーに同乗していた山崎は、ふすまの隙間から隣の部屋を覗き込みながらそう言った。
隣の部屋の中では、苦しげな表情をし、だが身動ぎ一つせずに病床に伏すミツバと、彼女の看病をする医者の姿。

「身体が悪いとはきいちゃいたが、俺達が思ってるより病状は良くねェみたいで。
 倒れたのが屋敷前じゃなかったら、どうなってたことか」

安堵したようにため息をつき、山崎は後ろを振り返る。

「……それより旦那も姐さんも、なんでミツバさんと?」

どこか落ち着かない様子で萎縮しているシグナムと、彼女とは対照的に、
我が物顔で用意されたせんべえを齧りながらくつろぐ銀時がそこにいた。
ミツバが倒れたその後、外の様子が騒がしいことに気付いた屋敷の使用人が彼女らを見つけ、
そして大慌てで医者を呼び、ミツバを屋敷の中へ担ぎ込んで、今に至るというわけだ。

「それは……」

「なりゆき」

シグナムが言葉を発しきる前に、銀時が相変わらずせんべえを租借しながらそう答える。

「そーゆうお前はどうしてアフロ?」

逆に銀時は問い返す。
返ってきた答えは、実に簡潔であった。

「なりゆきです」

「どんななりゆき?」

適当にツッコミを返し、そして銀時は山崎が居るのとは正反対の方向――縁側の方へ目を向ける。
釣られるように、山崎とシグナムもそちらの方へ目を向けた。

「そちらさんは……なりゆきってカンジじゃなさそーだな」

銀時達に背を向け、夜空を見上げながら紫煙をくゆらせる土方が、そこにいた。

「ツラ見ただけで倒れちまうたァ、よっぽどのことがあったんじゃねーの? おたくら」

「……てめーにゃ関係ねェ」

振り向くこともせずに、土方は突き放すようにそう言い放つ。
銀時は何故か、どこか嫌らしい笑みを浮かべ、口元を押さえながらくぐもった笑いを漏らした。

「すいませーん、男と女の関係に他人が首突っ込むなんざ野暮ですた〜」

「ダメですよ旦那〜。ああ見えて副長、ウブなんだから〜」

若い男女が織り成す目くるめくドラマ……何かしらの痴情の縺れでもあったのだろうと邪推した銀時と山崎は、
揃ってニヤニヤと土方に下品な視線を浴びせかける。
そこはかとなく雰囲気が悪くなってきたことに感付き、シグナムがおたおたと手を振って二人の妄言を止めようとする。
だが、彼女の行動はいらぬお世話だったようだ。
先程まで静観を決め込んでいた土方が突如として腰の刀に手をかけ、凄まじい勢いで抜刀し、
鬼のような形相で銀時達に向き直ったのだ。

「関係ねーっつってんだろーがァァァ!! 大体なんでてめェらここにいるんだ!!」

「ちょ! 副長! ストップストップ!」

「落ち着いてください土方殿! 隣に病人が!!」

「うるせェェェ!! 大体おめーはなんでアフロなんだよ山崎ィ!!」

尻餅をついて狼狽をあらわにする山崎。
決死の表情で土方を羽交い絞めにするシグナム。
それをなんとか振りほどこうと暴れる土方。
鼻をほじりながらヘラヘラと薄ら笑いを浮かべる銀時。
そんな四人のおかげで見事なカオス空間と成り果てた部屋の中に、不意にふすまの開く音が聞こえてきた。
先程山崎が覗いていたのとは反対の方向からだ。
四人は鳴りを潜め、音のした方へ視線を向けた。

「皆さん、何のお構いも無く申し訳ございません。ミツバを屋敷まで運んでくださったようで、お礼申し上げます」

ふすまの向こうには、こちらへ向けて深々と座礼をする一人の男の姿があった。

「私、貿易商を営んでおります、『転海屋』蔵場当馬と申します」

丸く切りそろえた髪。
角ばった輪郭に彫りの深い顔。
ふくよかというよりは、むしろどっしりとした体つきは、見る者に"質実剛健"という印象を抱かせる。

「ミツバさんの旦那さんになるお人ですよ」

訝しげにその男を睨みつける土方に、なんとか落ち着きを取り戻した山崎がそう耳打ちをする。
合点がいった様子で「ああ……」と気のない返事をした土方は、その時になってようやく、自分が抜刀したままだということに気がついた。
居心地悪そうに咳払いをし、刀を鞘に収める。

「身体に障るゆえ、あまりあちこち出歩くなと申していたのですが……今回は、ウチのミツバがご迷惑おかけしました」

蔵場は再び頭を深く下げる。
愚直なまでに生真面目な印象を受ける振る舞いだった。
ややあって蔵場は顔を上げ、そして土方達の出で立ちを改めて見て、僅かに一驚を喫したような表情を見せた。

「もしかして皆さん、その制服は……真選組の方ですか。 ならばミツバの弟さんのご友人……」

「友達なんかじゃねーですよ」

唐突に部屋の中へ響く声。
その場に居た五人は、一様に声のした方――縁側の方へ視線を向けた。
土方達と同じ、黒いスーツのような真選組隊服。
普段の飄々とした表情とは打って変わった、険しい蘇芳の瞳。
真選組一番隊隊長、沖田総悟が、そこにいた。

「総悟君、来てくれたか。ミツバさんが……」

安堵の表情を見せる蔵場の言葉には耳を傾けず、そして部屋に居た銀時、シグナム、山崎のことを気にすることもなく、
沖田は無言のまま土方の側まで歩み寄る。
土方もまた物言わぬまま、沖田が自分へと向かってくる様をただじっと見るだけだった。

「土方さんじゃありやせんか。こんなところでお会いするたァ奇遇だなァ」

わざとらしいくらいに親近感溢れる口調。
しかし、その言葉を発した沖田の顔は、決して笑ってはいなかった。
沈黙が辺りを支配し、壁に掛けれられた時計の針の音だけが不気味に響き渡る。
時間にすれば三秒か、四秒か。
沖田は自身が招いた沈黙を、自らの口で、底冷えするような声で打ち破った。

「どのツラさげて姉上に会いにこれたんでィ」

それっきり、沖田と土方は再び口を開くことなくその場に佇む。
異様な空気だった。
まるで二人を中心にし、その二人以外の全ての者をこの部屋から押し出さんとする重圧が、
沖田達の身体から発せられているかのようだった。

「違うんです沖田さん! 俺達はここに……」

剣呑な空気に耐えかねたシグナムがその場を取り繕おうとするよりも先に、山崎が沖田に歩み寄ろうとする。
しかし、

「ぶっ!?」

土方の上段蹴りが、山崎の顔面に直撃した。
鼻血を噴きながらもんどりうって倒れる山崎の襟首を掴み上げ、まるでゴミのように彼を引き摺りながら
土方は沖田の脇を無言のまま通り抜ける。

「……邪魔したな」

そうとだけ言い残し、土方は部屋を去っていった。
山崎が何かを喚いていたが、そんなものに耳を貸すことはなかった。
床板を軋ませながら縁側を渡っていると、大きく障子の開かれた部屋から光が漏れているのが見えた。
誰が居るのか……は、確認するまでもない。
視線を移すことなく、ただ前だけを見て土方は部屋の前を去ろうとし――しかし自身の身体が完全に障子に隠れてしまう直前、
ほんの一瞬、視線だけを動かして土方は部屋の中を覗った。
見知った……よく見知ったその瞳からは、どこか寂しさを感じずにはいられなかった。



翌日、銀時の一日は厠で盛大に吐瀉物をぶち撒けることから始まった。
気分悪そうに自宅の厠から出てきた銀時を待ち受けていたのは、普段と変わらぬ助手二人。

「ちょっとちょっと、ホントに大丈夫なんですか? 銀さん」

「私達に黙って勝手に遊びに行くからそうなるネ。天罰ヨ天罰」

先日のミツバの一件の後、何故だか無性に飲みたい気分になった銀時は、昼間に沖田から受け取った報酬片手に
夜の飲み屋に繰り出したのだったが、調子に乗って飲みすぎた結果がコレである。
なんというか、まるでダメな大人をそのまま具現化したような男である。
新八の肩を借り、うーうー情けない呻き声をあげながら、銀時は万事屋店舗から一階へ繋がる階段を下りる。

「……やっぱり、今日は休んだ方がいいんじゃないですか? はやてちゃんには僕が言っておきますし……」

「うるせーよ。『ボクチン酔いつぶれちゃったから今日は仕事にいけませーん』なんて言ってみろ。
 赤っ恥もいいところじゃねーか。だいたい銀さん酔ってないからね。いちご牛乳飲み過ぎてちょっと気分悪くなっただけだからね」

顔を歪めながら口元を押さえ、翠屋の脇に停めてある原付へと向かう。
こんな状態になっても仕事をこなそうとするその姿勢だけは、評価してやっても良いかも知れない。

「そんな状態でバイク乗ったら危ないネ。今日は定春に乗ってくヨロシ」

ポンポン、と定春の背中を叩き、そこに乗るように神楽が促す。
しかし銀時は素直に首を縦に振るようなことはせず、

「だから酔ってねーって言ってんだろ。妙な気ィ回してんじゃねぼろろろろろ!!」

屈み込み、胃の中で中途半端に消化されていた食物の一切合財をその場に吐き出した。
銀時の背中をさすり、グロッキーになった彼を定春に背負わせる神楽。
その様子を見て新八は額を手で押さえため息をつく。

「あーあー、何やってんですかもう。すぐに掃除道具持ってきますから、踏んだりしないで……」

そこまで言って、何気なしに翠屋の方へ視線を向け――そして眉をひそめた。
翠屋の店舗前の歩道。
そこに、一人の女性が立っていた。
その女性は白い小袖と深紅の緋袴を身に纏い、艶のある長い栗色の髪を一本結びにした――有体に言って、
巫女さんのような出で立ちをしていた。
その女性は店に入るでもなく入り口の前をうろうろと行ったり来たりし、そして不意に立ち止まったかと思うと、
何を思ったかまじまじとショーウィンドウを見つめながら、小さくため息を漏らした。
はっきり言って、挙動不審にもほどがある。
そんな謎の巫女さんをじっと観察していると、全く動かない新八を不審に思ったのか、神楽が声を掛けてきた。

「新八、何やってるアルか?」

「あ……ううん、なんでもないよ。神楽ちゃん、先に銀さんをはやてちゃんの所に連れてってあげてよ。
 僕はここの掃除してから行くからさ」

普通ならこの場で巫女さんのことを話すべきなのだろうが、下手に話すと暴走超特急神楽があらぬ方向へ話を持っていきかねない。
一応の常識人である銀時がダウンしている今、そうなってしまったら神楽を止める事が出来るのは自分しかいない。
さすがの新八もそんな面倒事は御免被りたいので、とりあえず神楽をこの場から遠ざけるべく、銀時をはやての家へ連れて行くように促した。
神楽は「分かったネ」と素直に返事をし、定春にちょこんと跳び乗って、

「それじゃ定春、出発しんこーアル!」

「わんっ!」

「……おーい定春くーん、頼むからゆっくり歩いてくれよー。気分悪いからね。銀さんホント気分悪いからね」

銀時の真摯な願いも虚しく、定春は土煙を上げながら商店街の道を失踪していった。
当然のごとく銀時の情けない叫びが青空に響き渡り、道行く人々は何事かと、定春の方を見やる。
心の中で手を合わせて、引き攣った顔で定春の後姿を見送った新八は改めて翠屋の入り口を見る。
あれほどの大音響が響いたにも関わらず、先の巫女さんはそんな事などまるで聞こえていなかったかのように、
熱心にショーウインドウを見つめ続けていた。

「あの……」

後ろから近寄り、声を掛けてみる。
反応無し。
新八の存在にも気付いていないのだろうか。
相も変わらず巫女さんは、ショーウィンドウの一点に熱烈な視線を浴びせ続けていた。
一体何なんだろうか。
巫女さんが見つめていると思わしきその場所に、新八も同じく視線を送る。
そこにあったのは、なんとも高さのあるグラス。
全体を桜色で彩られ、グラスの内側にはたっぷりのチョコレートに苺のアイス。
そしてたっぷりのった大きな苺。
見ているだけで涎が出てきそうな、ボリューム満点のいちごパフェの模造品であった。

「……あの、ちょっと君?」

なんでこんなもの見つめてるんだろう? と不思議に思いながら、新八は再び巫女さんに声を掛ける。
今度はどうやらちゃんと声が聞こえたらしく、巫女さんはビクリと肩を震わせて新八の方へ顔を向け、

「あ、あの、違うんです! あたし別に怪しい人なんかじゃなくて、あの、その!」

何故だか顔の前でブンブンと手のひらを振り、しどろもどろになりながら慌てふためきだした。
とは言うものの、その姿はどう見ても怪しい。
新八があからさまな疑いの眼差しを向けると、巫女さんもさすがにこの言動は怪しすぎたと自覚したのか、
途端に口元に手を置いてしおらしい態度を取り始めた。
顔を俯き加減にし、上目遣いで窺うように新八を見つめ、そして時折チラチラと目を逸らす。
逸らした先にあるものは、先程まで彼女が見つめていたパフェの模造品。
そんな彼女の態度を見て、新八の脳裏に一つの予想が浮かぶ。

「……えーっと……もしかして観光か何かですか?」

「……え?」

きっと彼女は別の世界からやってきたばかりで、日本での勝手が分からないのだろう。
だからさっきも、商品見本を真剣に見ながら、しかし店に入ることをためらうような素振りを見せていたのだ。
もちろんこれは新八の勝手な推測なのだが、どうやらその予想は当たらずとも遠からず、といったところのようだった。

「……えっと……そんな感じです」

巫女さんはほんのり顔を赤らめ、恥ずかしそうに目を背けながら呟いた。
そんな彼女を見て、思わず新八は苦笑を浮かべる。

「あはは……でも、こーいう飲食店って、どこの世界でも利用法は変わらないと思いますけどね」

すると巫女さんは少しばかりばつが悪そうに、

「……あの……実はあたし、こういうところには来たことがなくて……」

薄紅に染まっていた頬をますます紅潮させ、先程にも増して縮こまってボソボソ呟く。
放っておけば豆粒サイズにまで縮こまってしまうんじゃないかと思えるくらい萎縮する巫女さんに、
新八もどこか不憫さを感じたのだろう。
頬をぽりぽりと掻きながら困ったような表情を浮かべ、

「……なんでしたら、一緒に入りましょうか? ここの店員さん僕の知り合いですし、
 ちょっとくらい粗相をしても、大丈夫だと思いますよ?」

予想だにしなかった新八からの申し出に、巫女さんはただうろたえるだけだった。
「あの……」とか「ぅー……」とか、言葉にならない声を出しつつ目を泳がせる。
たっぷり十秒、悩みに悩んで頭を抱えていた巫女さんはぺこりと頭を下げて、

「えっと……じゃあ、お願いします……」

思っていた通りの返答に安心したのか、新八は柔らかな笑みを浮かべて翠屋の扉を開く。
とろんとした金色の瞳が可愛らしい、長い栗色の髪の巫女さん――ディエチは、おずおずと新八の後ろに付き従っていった。



カラン、という小気味の良いベルの音の響いた翠屋店内には、客の姿は一人も見当たらなかった。
平日のしかも昼休み前なのだから、まあ当然といえば当然なのかもしれない。
知り合いの姿はないかと店内を見渡そうとする新八の前に、お盆を持ったメガネの女性が現れる。

「いらっしゃいま……え゛?」

その女性、もとい美由希は新八の姿を認めるや否や、盛大にメガネをずり落としてその場に固まった。
いや、正確にはその背後か。
新八とそう変わらない背丈。
紅と白の対比が美しい、伝統的な巫女装束。
長く結わえられ、馬の尾のようになった艶やかな栗色の髪。
どこか幼さの残る、可愛らしい金の瞳。
おっかなびっくり店内を見渡すその女性と、彼女と共に店内にやってきた新八の姿は――何も知らない人間から見れば、そう、
おそらく"並々ならぬ関係"のように見えるのだろう。

「ええぇえぇええぇぇぇ!!?」

デッサンの狂った顔で大声を上げる美由希に、ディエチは思わずビクリと肩を震わせる。
あまりの大音響に新八は両耳を塞ぎ、顔をしかめる。
そんな彼の肩に、何者かの手が置かれる。

「……そうか、ついに新八くんにも春が来たか……」

後ろを振り向いてみる。
ほろりと涙を流しながら、どこかしみじみとした様子で言う恭也の姿がそこにあった。

「オィィィィィ!! 予想はしてたけどやっぱり勘違いしやがったよこの人達!!
 つーかアンタら学校はどーした!?」

「まさかこんなに早く弟分の彼女をお目にかかれるとはねぇ……ささ、どうぞこちらへ」

「人の話を聞けェェェェェ!!」

もはや新八の言葉など馬耳東風といった具合に、恭也はすぐ側の席へディエチを案内する。
ディエチはというと、にわかに混乱した様子で新八と恭也の顔を見比べていたが、ややあって恭也に従うように、
彼の案内する席へと着いた。

「アレですよ! 国外の方なんですよこの人! 日本(こっち)での勝手が分からなくて困ってたみたいだから、
 手を貸しただけで……」

紳士的にレディのエスコートを行う恭也に対し、新八はもちろん誤解を解くべく熱弁を振るう。
しかし、恭也はどこか楽しそうにニヤニヤと笑みを浮かべ、

「へぇ。初めてで国際恋愛だなんて、なかなか冒険家だねぇ」

「呪われたヘッドホンでもつけてんのかアンタは!? ちょっと君も何か言って……」

と、助けを求めるようにディエチに向く新八。
だが視線の先の彼女には新八の声など届いていなかったらしく、ディエチは物珍しげに店内を見回し目を輝かせていた。
観念したように新八がため息をつくと、その様子を見ていた恭也が口元に手を置き、堪えるように笑いを漏らし始めた。
ああ、やっぱり分かっててからかってたんだな、と新八が理解すると同時、彼の脳裏に嫌な予感が走る。

「……そういえば君、ちゃんとお金持ってきてます?」

絵になるくらい行儀良く席に座っていたディエチに対し、新八はそんなことを問いかける。
例えばコメディドラマで世間知らずの外国人さんがこのような場所に来た場合、
財布を忘れてきてたり日本円を持っていなかったりするのがお約束である。
いくらなんでも現実でそんなドラマのお約束が適用されるわけないだろう、と思うかもしれないが、事実は小説より奇なりである。
一応確認を入れておくに越したことはない。
だが新八の心配はどうやら杞憂だったらしく、

「あ、はい。ちゃんとお財布も持ってきて……」

と、ディエチは袖の下に手を差し入れて、

「……あ……」

つるっ、という効果音が似合いそうなくらいに見事に手を滑らせ、小銭がたんまり入った財布を床に落としてしまった。
小さな金属がぶつかり合う音と共に、たくさんの小銭が辺りにぶち撒かれる。

「ご、ごめんなさい……」

慌てて小銭を拾い集めようと、ディエチは席を離れて床にしゃがみこむ。

「ああ、僕も手伝いますよ」

そして新八もまた、小銭を拾おうと勢いよく屈み込み……。
ゴツン、となんとも痛々しそうな音が店内に響き渡った。

(……お約束だな)

(お約束だね)

頭を押さえて悶絶するお馬鹿さん二人を眺め、恭也と美由希は揃ってそんなことを考える。

「いたた……だ、大丈夫ですか?」

「……っ。は、はい」

お互いに頭を押さえて目尻に涙を溜め、新八は苦笑いを漏らし、ディエチは申し訳なさそうに頭を下げる。
しばらくうずくまったまま痛みに耐えていた二人だったが、ややあって痛みが引いてきたのか、改めて小銭に手を伸ばし始める。
チャリチャリと小銭の擦れ合う音と共に、床に転がった硬貨が一枚、二枚と姿を消していく。
そしてようやく最後の一枚となったその時。

「……あ」

「あ」

十円玉硬貨の上に、二人の手のひらが重なった。
途端に訪れる気まずい空気と沈黙。
新八は思わず顔面から脂汗を垂らして硬直する。

(……あ、あれ? 何この雰囲気。やだなぁ、こーいうのってむしろ恭也さんの領分じゃぁ……)

顔、というより身体中から"ヘルプミー"という文字を浮かべながら新八は助けを請うように後ろに振り向き、

「どうしたのお兄ちゃん? なんだかさっきから騒がしいけど……」

店の奥からやってきたなのはが、店内に広がるストロベリー空間を目の当たりにして硬直する。
ちなみに何故なのはがここにいるのかというと、今日は土曜日に行われた授業参観の振り替え休日だからである。
貴重な休日にも店の手伝いをする孝行娘ななのはだが、しかし神様は彼女のことがあまり御気に召さないらしい。

「し……」

ぷるぷると震えながらなのはは新八を指差し、大きく息を吸い込んだかと思うと突然顔を真っ赤にして、

「新八さんまで私の知らない世界にー!!」

「だから違うっつってんだろうがァァァァァ!! つーか"まで"って何だ!?
 アレか!? 銀さん辺りが似たようなことやらかしたんか!?」

それそのものズバリ的中なツッコミで新八は応戦をする。
その拍子にせっかく拾い集めた小銭が再び床に転げ落ちてしまったのだが、そんな事など意にも介さず、
新八は本日何度目かになる身の潔白の証明をしようとし……。

「あ、やっぱり新八さんやー!」

ベルの音と共に、可愛らしい関西弁が店の入り口から響いてきた。
その場にいた者達は途端に静まり返り、皆一様に声のした方に視線を向ける。

「……あれ? はやてちゃん?」

そう、そこにいたのは八神はやてだった。
いつも通りの愛らしい服を着込み、いつもの様に車椅子に乗り、シャマルに車椅子のグリップを握ってもらい、
そしていつものように満面の笑みを浮かべた彼女がそこにいた。

「え? あれ? な、なんでこんなところに?」

彼女がここにいる理由など察しがつくはずもなく、新八は心底不思議そうにはやて達に問いかける。

「銀ちゃんがいつまで経ってもこーへんから、迎えに来たんよ〜」

「一応住所は聞いていましたからね。それで、近くまで来てたんですけど……」

頬に手を添え、シャマルは困ったように愛想笑いを浮かべる。

「すぐそこで、定春ちゃんと物凄い勢いですれ違って」

「銀ちゃん、すごい悲鳴あげとったなぁ」

「何かあったのかと思って定春ちゃんが来た方向を見たら、新八さんらしい人が女性の方と喫茶店に入るところが目に入りまして」

「これは一大事や! って思って、急いで追いかけてきたんよ〜」

「結局アンタらも勘違いしてんのかァァァァァ!!」

思わず声を大にしてツッコむ新八だが、はやてとシャマルは悪びれる様子もなく、

「まあ、よー考えたら新八さんに限ってそれはないもんなー」

「そうね。新八くんに限ってそれはないわよねぇ」

「ほんっと情け容赦ねーなアンタら!!」

割と悲痛な叫びを上げて激昂するが、しかし二人のかしまし娘は、そんな彼を見てニコニコと微笑むばかり。
もはや怒る気力も失った新八は、呆れたようにため息をついて頭を抱える。
そんな彼の服の袖を、何者かがクイクイと引っ張った。
誰かと思い、新八は袖の方へ視線を向ける。

「……あの、新八さん。お知り合い……ですか?」

なのはだった。
彼女はどこか不安そうな表情ではやて達の方を見て、新八にそう問いかける。

「ん? ああ、そういえば全然話したことなかったね。えーっと、なんていうのか……
 今の銀さんの雇い主の、八神はやてちゃんだよ。で、こっちがはやてちゃんの親戚のシャマルさん」

「よろしくな〜」

「よろしくお願いしますね」

新八からの紹介に与った二人は、先にも増して笑顔を浮かべる。
彼女らの底無しの明るさに少々気圧されつつも、なのはは若干緊張しながらぺこりと頭を下げて、

「えと……高町なのはです。どうぞよろしくお願いします」

行儀良く自己紹介をする。
するとはやてが不思議そうな顔をして、なのはの顔をまじまじと見つめ始めた。
下唇に人差し指を押し当て、うーんと何かを思い出すように頭を捻る。
不可解なはやての行動になのはが眉をひそめていると、突然はやてはぽん、と手を打ち、

「そっか! あのなのはちゃんか〜!」

「……ふぇ?」

諸手を挙げて万歳のポーズを取りながら、満面の笑みでそんなことを言った。
しかし元気一杯ご機嫌一杯なはやてとは対照的に、なのはは混乱しながら頭上にクエスチョンマークを浮かべるばかりだ。
まるで自分のことを知っているのかのような物言いをされたが、しかしこちらははやてのことなど一切知らない。
一体どういうことなのかと怪訝そうな顔をしていると、はやてが胸の前で手を組んで、

「銀ちゃんらから、話は聞いとったんよ。いっぺん会ってみたいって思っとったんや〜」

感動したのか興奮したのか、車椅子から身を乗り出そうとしながらそう言った。
相も変らぬ、まるでお日様のような温かな笑顔。
しかし、そんな彼女とは全く逆に、なのはの表情はどこか曇った笑顔だった。

「そ、そうなんだ……あはは……」

なのはの僅かな異変を感じ取ったのだろう。
すぐ側にいた新八が屈み込み、なのはの耳元で小さく問いかける。

「……どうかしたの? なのはちゃん」

なのははしばらく押し黙っていたが、やがて口篭るような素振りを見せ、そして遠慮がちに新八の耳元で
ボソボソと呟く。

「あの……あの子が雇い主さんってことは、その……最近、銀さんがよくお店を空けてたのって……」

「うん。はやてちゃんの家に仕事に行ってたからだよ」

「それって……あの、毎日なんですか?」

「んー、そうだね。ほとんど毎日かな。……それがどうかしたの?」

「い、いえ! なんでもないですよ〜」

わたわたと手を振って、なのはは努めて平静を装う。
しかし、彼女の様子がおかしいのは、誰の目から見ても明らかであった。
新八の不思議そうな視線にいたたまれなくなったのか、なのはは新八から目を逸らす。
視線の先には、恭也達にも愛嬌を振りまいて自己紹介をするはやての姿。
そんな彼女をまじまじと見つめながら、なのはは最近めっきり顔を合わせることが少なくなった居候の姿を思い返した。
不器用で、だらしなくて、ぶっきらぼうで、でもどこか優しい侍。
物心ついた頃からずっと一緒にいた、もう一人の兄のような存在。
父と母が仕事で家を空け、兄と姉も学校に行って、一人で家に居ることを余儀なくされていた時、彼は時間を見つけては家にやってきて、
暇潰しと称して自分の話し相手になってくれた。
小学校に入学して、初めて学校に行った日の放課後。
他の子達と上手く会話が出来なくて、友達を作ることが出来なくて、一人でとぼとぼと校門をくぐろうとした自分のことを、
彼は笑いながら迎えてくれた。
「高嶺の花ってのも考えモノだなァ、オイ」などと彼は憎まれ口を利いてきたが、それでも、その時は本当に嬉しかった。
いつも面倒くさそうにして、何が会っても自分には関係ないと言いたげな態度ばかりとって。
でも自分が本当に困っている時や悲しい時には、必ずと言っていいほど手を差し伸べてくる彼は、
いつしか傍にいるのが当たり前な存在になっていた。
でも……。

(……そっか……)

今の彼は、自分の傍にはいない。
今の彼は自分ではない、目の前のあの子の傍にいる。
そのことが、ひどくなのはを不安にさせる。
まるでシャボン玉のようにフワフワと掴み所のない彼が、いつか自分の元に浮かぶのをやめ、
はやての元へ行ってしまうのではないかと、そんな漠然とした思いに駆られる。

(毎日会ってるんだ……銀さんと……)

胸のうちにもやもやとしたものを抱え、しかしそれを否定しようとなのはは首を振る。
三度目の来客が訪れたのは、その時だ。
ベルの音と共に扉を開いたのは二人の女性だった。
なのはとそう背丈も変わらない、長い銀髪の小さな女の子と、明るい空色の髪を短く切った、活発そうな女性。
二人はしばし店内を見回した後にお互いの顔を見合わせ、そして銀髪の少女が困ったような顔をして訊ねてきた。

「少々お伺いしたいのですが、この辺りで茶の長い髪を結わえた、巫女装束の女を見ませんでしたか?」

その言葉に恭也と美由希、そして新八は顔を見合わせる。
長い茶髪に巫女装束。
そんな最大公約数の最小値を狙ったような特徴、該当する人物は一人しかいない。
三人は一斉に、すぐ傍のテーブルに視線を向ける。
何故かテーブルの下でプルプルと震えるディエチが、そこにいた。
何をしているのか、と新八が問いかけようとすると、彼女は目に涙を溜めながら、怯えるような表情で訴えかけてきた。
すなわち、「ここにいることを絶対に教えないでほしい」である。
どうやら入り口の方からはテーブルの下の様子は窺えないらしく、二人組みの女性は怪訝そうな表情で新八を見ていた。
どうしたもんかと思案し、困ったように恭也と美由希に視線を配ると、二人は苦笑を浮かべ、揃って肩を竦めた。
その様子を見て新八もまた同じように苦笑し、二人組の女性の方を向き、

「すいません、ちょっと見てないですねぇ」

「そうですか……」と銀髪の少女は残念そうにため息をつく。
二人の探し人を匿ったことはどうやら気付かれなかったらしく、銀髪の少女はペコリと頭を下げて謝辞を述べ、
空色の髪の女性を従えて、さっさと店の外に出て行ってしまった。

「……もう出てきても大丈夫ですよ?」

新八が笑いながらそう言うと、ディエチはホッとした様子でのそのそとテーブルの下から這い出てきた。
着衣の乱れを直し、深呼吸をして新八達にお辞儀をして、

「ありがとうございます。おかげで助かり……」

そこまで言ったところで、突如として彼女の背後から二つの足音が響いた。
顔中の汗腺という汗腺から冷や汗を流し、ディエチはゆっくりと傾けた上半身を起こす。

「……つっかまえた〜!」

ディエチが完全に直立するのと同時、悪戯っぽい女性の声と共に、何者かがディエチの身体を羽交い絞めにした。

「ふわぁ!?」

予想していた出来事だったにもかかわらず、ディエチは思わず上擦った悲鳴を上げた。
ぱたぱたと手足を暴れさせ、必死に拘束を解こうとするが、彼女の抵抗は全くの徒労に終わる。

「こんなところで何をやっている! あれほど無断で外出するなと言っていただろう!」

怒声を浴びせるのは、先程店を出て行ったはずの銀髪の少女――チンク。
頭から湯気でも出るんじゃないかと思えるくらいに憤怒している彼女からは、しかしその幼すぎる見た目のためか、
それほどの威圧感を感じることは出来なかった。
一頻りディエチに向かって怒鳴り散らしたチンクは大きなため息をついて恭也達の方を向き直り、
本当に申し訳なさそうに何度も何度も頭を下げる。

「申し訳ありません、妹がご迷惑をおかけして……」

そんな彼女の後ろには、空色の髪の女性――セインに、まるで悪戯をした子猫のように首根っこを掴まれたディエチの姿があった。

「ほら、キリキリ歩く!」

「むぁー……いちごパフェ……」

名残惜しそうな声を上げながら、ズルズルとセインに引き摺られていくディエチ。
さっさと店の外へ出ようとするセインの後を追うため、チンクもトコトコと扉へ向かう。
二人に追いつき、隣に並んだチンクは、ディエチに向かってたっぷりと説教をし、
そしてチラリと店内を――いや、はやて達を一瞥し、翠屋を後にしていった。
店内に残された六人は、ただただ呆然とその様子を眺めているだけだった。

「……え? 妹? ……え?」

「なんだか、面白そうな方達でしたね」

ぽかんとした様子で、入り口の扉と先程までディエチが居た場所を交互に見ながら新八は言い、
シャマルはどこか楽しげに呑気なコメントを残す。
一体なんだったんだ? あれは。
高町三兄妹が「そもそもどこから入ってきたんだ?」と言いたげな顔をしていると、
不意に何かを思い出したかのようにはやてが胸の前で手を叩いた。

「あ、そういえば新八さん。さっき銀ちゃんらが走っていったのって……」

「ん? ああ、はやてちゃんの家にいくためだけど……あ」

と、そこで思い至る。
銀時達の目当ての人物は、今ここにいるじゃないか、と。

「大変や! 早く戻らんと、銀ちゃんらに待ちぼうけさせてまう!」

はやては大慌てでシャマルに移動を促し、そして急かすように新八を呼びかける。
彼女の焦りが伝染したのか、新八もまた慌てて、恭也に店の脇の掃除を頼んではやてのすぐ後を追う。
そんな彼を引き止めようと、声をかけようとするなのはなのだが、新八は彼女のことに気付かぬまま店の扉を開いた。

「それじゃ、行ってきます!」

「なのはちゃ〜ん! また今度、ゆっくりお話しよな〜!」

大きく手を振り、笑顔ではやてはなのはに別れを告げる。
なのはもまた遠慮がちに手を振りはやてを見送るが、しかしその表情に晴れ間は見えない。
胸の内で大きくなっていく、渦を巻いたような感情に戸惑いを覚え、彼女は思う。

(……なんだろう……この気持ち……)

それが幼い嫉妬心であるということに、今の彼女が気付くことはなかった。