なの魂

 件の不思議生物を動物病院へ運び込んで早十数分。
 心配そうに待合室で座っていたなのは達だったが、治療室から一人の女性――院長が、
 フェレットのような生物を抱えて出てきたのを認め、ようやく彼女らは安堵の表情を見せた。
 胴体に包帯をぐるぐる巻きにされているが、それ以外には目立った外傷は無いようだ。

「怪我はそんなに酷くないけど……随分と衰弱してるみたいねぇ。きっと、ずっと一人ぼっちだったんじゃないかなぁ」

「……先生、これってフェレットですよね? どこかのペットなんでしょうか?」

 どうやら彼女らの中では、この生物は既にフェレットとして認識されているようだ。
 すやすやと寝息を立てるフェレットを院長から抱き取りながらアリサが尋ねる。

「フェレット、なのかな? 変わった種類だけど……それに、この首輪についてるのは……宝石、なのかな?」

 そう言うと院長は、不思議そうにフェレットの首の辺りを軽く突付いた。
 怪我にばかり目が行って気付かなかったが、よく見ると小さな首輪がフェレットに巻かれていたのだ。
 そしてその首輪についているのは、まるでルビーのような情熱的な赤い色をした宝石。
 普通の人間なら、その美しさに目を奪われてしまうだろう。
 事実、幼い少女達はその宝石の美しさに心奪われ、その宝石に負けないくらいに瞳をキラキラと輝かせていた。
 だが、ただ一人。
 銀時だけは、どこか小難しそうな面持ちで顎に手を置くのであった。

「? どうしたんですか、銀さん?」

 彼の様子に気付いたなのはが尋ねるが、銀時は少しの間を置いて首を横に振る。

「いや……なんでもねェよ」

 否。
 銀時はこの宝石――正確には、宝石に類する物に確かに見覚えがあった。
 だが、確証が持てない。
 確かに見覚えがあるにはあるが、もしかしたら自分の思い違いかもしれない。
 仮に思い違いでないとすれば、何故こんな小動物が"それ"を持っているのだ?
 脳裏に次々と浮かぶ自問に、しかし答えを返せないまま銀時が首を捻っていると、先程まで眠っていたフェレットが
 唐突に顔を上げた。

「あ……起きた!」

 嬉しそうに笑みを浮かべ、アリサはフェレットを観察する。
 自然溢れる林道から唐突に人口の建造物へ連れて来られて混乱しているのだろうか。
 フェレットは不思議そうに辺りをきょろきょろと見回す。
 それは、ほんの僅かな時間。
 一頻り周辺の観察を終えたフェレットは、小首を傾げてある一点を見つめだした。
 その小さな瞳に映るものは……。

「なのは、見られてる」

「え、あの……うん。えっと……えっと……」

 熱烈な視線を送られて困惑するなのはだったが、フェレットの方はというと
 すぐに興味を無くしてしまったのか、はたまた疲れがたまっていたのか、再び深い眠りについてしまった。

「しばらく安静にしたほうが良さそうだから……とりあえず、明日まで預かっておこうか?」

「はい、お願いします!」

「良かったら、明日また様子を見に来てくれるかな?」

「わかりました!」

 元気良く答える三人娘。
 この後、医療費のために財布をすっからかんにされた銀時が泣きを見るのだが、それはまた別の話である。



なの魂 〜第二幕 魔法少女始めましたって冷やし中華みたいに言うな〜



 時間が経つのは早いもので、今はもう夜。良い子は寝る時間だ。
 病院からの帰り道、件のフェレットをどうするか四人で話し合ったのだが……。
 アリサ――犬を飼ってるのでダメ。
 すずか――猫を飼ってるのでダメ。
 銀時――フェレット飼う余裕があるなら家賃払え。という理由でダメ。
 そんなわけで、残ったなのはが自分の家で引き取れないかと家族に相談したところ、意外にも快く承諾をもらえてしまった。
 飲食店経営の家でペットの飼育をしてもいいのか? という疑問が持たれるが、
 店舗のすぐ上で巨大犬を飼っている一家がいるので全く問題は無い。

『アリサちゃん、すずかちゃん。あの子はうちで預かれることになりました。明日、学校帰りにいっしょに迎えに行こうね。
 なのは』

 布団の中に潜り込み、その旨をメールで二人に伝える。
 送信完了。パタンと携帯電話を閉じ、布団を目深に被って睡眠の準備に入る。
 その時だ。

(……聞こえますか! 僕の声が、聞こえますか!)

 突然耳鳴りのような物がしたかと思うと、なのはは得体の知れない圧迫感に駆られた。
 そして聞こえてくるあの声。
 昼間、公園裏の林道で聞いたあの声だ。
 いや、聞こえる。というのとは少し違う。
 頭の奥底に、直接響いてくる。そんな感じだ。

(聞いてください! 僕の声が聞こえるあなた! お願いです! 僕に少しだけ、力を貸してください!)

「あの子が、喋ってるの……?」

 切迫した声。
 なのはは漠然と、あのフェレットのことを思い浮かべる。
 そうだ。昼間のあの時。
 助けを求めるあの声が聞こえた時、すぐ近くにはボロボロになった、あのフェレットがいた。
 もしかしたら、この声は本当にあの子のものなのかもしれない。

(お願い! 僕のところへ! 時間が! 危険が! もう!)

 その言葉を最後に、それっきり声は聞こえなくなった。



 同時刻。

「……しまったァ。今日ジャンプの発売日だった。完全に忘れてた。 今から買いに行くか」

 一日の仕事を終え、自宅の居間兼事務室でくつろいでいた銀時が突然そう呟いた。
 ホームヘルパーといっても住み込みではなく、ほとんどパートタイマーのようなものだ。
 朝早くからはやての家へ向かい、日が沈んだ頃に自宅へ戻ってくる。そういう勤務形態だ。

「いや、もういいじゃないですか。もうこんな時間ですよ?」

 のんびり茶を啜っていた新八が言う。
 普段は自宅に帰っている彼だが、今日は時間が遅いということもあり、銀時の家へ泊まるらしい。

「まァこれもジャンプ卒業するいい機会かもしれねェ。いい歳こいて少年ジャンプってお前……。
 いや、でも男は死ぬまで少年だしな……」

 頭を抱えてなにやらブツブツと銀時は呟き始める。
 恥ずかしい葛藤は心の中だけで行ってもらいたいものである。

「うるっせーんだヨ! 少し静かにしてるネ! 男ならグダグダ言わず、
 ジャンプでもマガジンでも買ってきやがれってんだヨ!」

 そんな銀時のウジウジした態度が気に入らなかったのだろう。
 今まで大人しくテレビを見ていた神楽が、急に不機嫌になり怒鳴りだした。
 さすがにこの物言いには銀時も怒った。
 怒ったのだが……何故か、二、三悪態をつくだけに留まり、すぐに家を出て行ってしまった。
 いつもの彼なら、こうも大人しく引き下がることは無いはずだ。
 近所迷惑千万な、子供のような口喧嘩が始まっていてもおかしくない。
 そのことを疑問に思った新八は首を傾げたのだが、まあいつもの気まぐれだろうと思い直し、そして同時に思い出す。

「あ、ジャンプって言えば明日古紙の日じゃん。今のうちに出しておかないと……」

 呟き、新八は事務デスクの方へ目を向ける。
 デスクの脇に積み重ねられた少年ジャンプ。
 その一番上には、今週号のジャンプが置かれていた。



 月明かりと僅かばかりの街灯に照らされた路地を、なのはは走っていた。
 先程の声が途絶えた直後に襲い掛かってきた妙な胸騒ぎにいてもたってもいられなくなり、
 こっそりと家を抜け出してきたのだ。
 息を切らしながら向かうのは、夕方に立ち寄った動物病院。
 あの声が、本当にあのフェレットのものならば。
 あの言葉が、もし本当なら……。
 再びなのはを胸騒ぎが襲う。
 気がつけば、病院の入り口はもう目の前に迫っていた。
 荒れた息を整え、どうやって中に入ろうかと思案しながら建物を見上げる。
 まさに、その瞬間だった。

「な、何!?」

 ガラスの割れる音と、コンクリートの砕ける音。
 同時に病院の庭先から土煙が上がる。
 塀が邪魔になって見えないが、中では常軌を逸したことが起こっているだろうということは想像に難しくない。
 呆然と煙を見上げるなのは。
 その視線の先に、何かが跳び上がった。

「あれって……」

 フェレット。
 そう、この病院で預かってもらっていたあのフェレットだ。
 突然かつ予想外の事態に困惑するなのはの元に、フェレットは重力に逆らうことなく落下。
 あわあわと千鳥足を踏みながらも、なんとかフェレットを受け止めることに成功する。

「な、何々!? 一体何!?」

「来て……くれたの?」

 声が"聞こえた"。
 今までのように頭の中に直接響いてくるのではなく、確かに耳を通って聞こえた。
 しかし、周りには人影らしき物は無い。
 ということは……。

「喋った!?」

 そうとしか考えられない。
 目の前のフェレットが喋ったのだ。
 様々な次元世界の人間が闊歩するこの江戸。
 犬や猫のような耳や尻尾が生えた人間なら、極々稀にだが見かけることはある。
 しかし喋るフェレットなど、生まれてこのかた見たことが無い。
 理解不能の出来事に、すっかり混乱してしまうなのは。
 だが常軌を逸した事態は、それだけに留まらなかった。
 フェレットを追うようにして、煙の中から何かが跳びあがった。
 真っ黒で毛むくじゃらで、巨大な丸い体。頭から伸びる二本の触角のようなもの。そして、不気味に輝く目。
 月明かりに照らされたその姿は、およそこの世の生物とは思えない物だった。
 その生物はなのは――いや、フェレットに一瞬目をやり、凄まじい勢いで落下を始める。

「え!? え?! えぇぇぇ!!?」

 驚きのあまり腰を抜かし、なのははその場にペタンとへたり込む。
 抗う術を持たぬ少女に、はるか上空から暴力的な質量が襲い掛かり……。

「ったく。手間かけさせんじゃねーよ!」

 月夜には似付かわしくないエンジンの爆音と怒鳴り声。

「わたあァァァァァ!!!」

 声の主はドップラー効果を効かせながら高速でこちらへ接近。
 激しい衝突音と一陣の風。
 そしてコンクリートの砕ける音と、耳を劈くようなブレーキ音。
 恐怖のあまり、硬く目を閉ざしていたなのはが感じ取ったのは、それだけだ。
 恐る恐る目を開き、そしてゆっくりと自身の身体を見渡す。
 お気に入りの洋服には傷一つ入っておらず、また己の身体も同様に、掠り傷すらも負ってはいなかった。

「乗れ! 早くしろ!!」

 呆然と座り込むなのはにかけられる、焦燥を孕んだ叫び。
 混乱の極みにあった意識はようやく覚醒を果たし、なのはは声のした方へ反射的に顔を向ける。
 
「ぎ……銀さん!?」

 愛用のスクーターに跨り、木刀を肩に担ぐ彼の背後には、無惨にもブロック塀にめり込む怪生物の姿があった。



「そ、その! 何が何だか良くわからないけど……一体何なの!? 何が起きてるの!?
 というか銀さん、なんでこんなところに!?」

 あまりのスピードに振り落とされそうになりながら、スクーターの座席後部でなのはは必死に銀時にしがみつく。
 彼女がそのような疑問を抱くのは、至極当然のことだった。
 何故彼が夜の動物病院に? 一体何の用で?

「……ちょいと引っかかることがあってな。ソイツの様子見に来た……つーか、お前こそなんであんなトコにいたんだよ」

 その問いを言の葉として紡ぐその前に、なのはが抱えるフェレットに目をやりながら銀時が逆に問いかける。
 なのははどこかばつが悪そうに目を泳がせながら、あー、うー、と言葉にならない声を漏らす。

「そ、それは、その……なんだか、この子に呼ばれたような気がして……」

 少しの間を置き、抱えたフェレットを不安げに見下ろしながら、観念したかのようになのはは答えた。
 だが銀時は彼女の答えなど聞いていない様子で、どこか上の空になりながら口を開く。

「その石っころ……デバイスだな?」

 ビクリと、身体が震えた。
 なのはの、ではない。彼女が抱えるフェレットの、だ。
 フェレットはなのはの腕の中で身を縮こまらせ、怯えるような視線を銀時へ向ける。

「……別に取って喰おうってわけじゃねェよ。んだが、だんまり決め込むつもりならこっちにも考えが……」

「銀さん! 後ろ!」

 突如として夜闇に響くなのはの叫び。
 本能的に危険を察知。それは、かつて戦場に身を置いた彼だからこそ為せる業か。
 ブレーキを握り締め、ドリフト気味にスクーターを急停止させた後、なのはを抱えて逃げるようにその場から跳び退る。
 スタンドを立てなかったがためにバランスを崩したスクーターが倒れる。
 それと同時。スクーターの位置から数メートル先の道路が、爆音と粉塵を伴いながら吹き飛んだ。

「っ……なのは! オメーはさっさと逃げろ!」

 腰に差した木刀を抜きながら銀時は叫ぶ。
 なのはは頷きすぐに銀時の側から離れる。
 しかし、銀時の安否が気になるのだろう。
 遠くへは行こうとせず、彼女はすぐ側の曲がり角から銀時達の様子を窺おうと、ひょっこり顔を覗かせる。
 僅かに晴れてきた粉塵の向こう。
 そこから二本の触角のようなものが銀時めがけて凄まじい勢いで伸びる。
 銀時はそれを屈んで回避し、地を蹴った。
 瞬きをする間もなく、彼の身体が粉塵の中へ飲まれてゆく。
 腰に構えた木刀を握り締め、逆袈裟に斬りつけるべく銀時は改めて獲物を視界に捉える。
 だが、それより先に粉塵の中から新たに現れた触角が、銀時の持つ木刀に絡みついた。
 顔を驚愕の色に染めながらも、武器を取られまいと抵抗する銀時だが、その予想外のパワーに木刀諸共夜空へと放り投げられる。
 だが持ち前の身体能力を活かし、何とか空中で身体を捻って地面に降り立つ。

「銀さん……!」

 怖くて仕方が無いはずなのに。
 逃げ出したくて仕方が無いはずなのに。
 心の奥底ではそう思っているはずなのに、しかしなのはは銀時の戦いから目を逸らすことが出来なかった。
 化け物の猛攻が銀時に襲い掛かる。
 まるでそれぞれが別々の生き物であるかのように黒い触角が蠢き、銀時の四方八方から飛び掛る。
 さしもの銀時もその全てを躱すことは叶わず、至近距離を掠めた触角が肌を、着物を薄く切り裂く。
 彼の一挙手一投足が、焼け付くように瞳に映る。
 彼の肌から赤い飛沫が飛ぶ度に、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
 
(助けなきゃ……私が、銀さんを助けなきゃ……!)

 いつの間にか恐怖は薄れていた。
 自分を助けるために傷付いていく彼の姿を、これ以上見ていることなど出来なかった。
 逆に足手まといになるだけだと、冷静に考えれば分かりきったことだろうに、
 しかしなのはは銀時を助けるべく塀の影から飛び出そうと一歩を踏み出す。
 彼女の足元に小さな陰が飛び込んできたのは、まさにその瞬間だった。

「……君には資質がある。僕に少しだけ力を貸して!」

 声の主は、あのフェレット。
 もはや自分が喋れるということを隠すつもりなど微塵も無いのだろう。
 流暢に放たれたその言葉に、なのはは焦燥しながらも首を傾げる。

「資質……?」

「僕はある探し物の為に、別の世界から来ました。でも、僕一人の力では想いを遂げられないかもしれない。
 だから! 迷惑だとは判ってはいるのですが、資質を持った人に協力して欲しくて……」

 フェレットは背後を振り向く。
 視線の先にはなおも苦戦を強いられる銀時の姿。

「それに……僕だって、あの人を見殺しになんかしたくない……だから、僕の持っている力をあなたに使ってほしいんです!
 僕の力を……魔法の力を!」

「ま、魔法……!?」

 突拍子も無いその言葉に、なのはは目を丸くした。
 魔法という言葉そのものは知っているし、どういうものかも僅かだが理解している。
 この世界にも魔法を利用した技術はあるからだ。
 むしろ問題なのは、そのような力を自分が使うことが出来るのか? ということである。
 何しろ、今までそんな幻想的なものとはほとんど無縁の生活を送ってきた身だ。
 普通なら、資質があるから大丈夫などといわれて分かりましたと即答できるはずも無い。
 そう、普通であるならば。
 しかしこの状況はもはや普通ではない。
 逡巡をするような余地も無い。
 彼を助けることが出来るなら。彼の力になれるのなら。

「っ! ……どうすれば……どうすればいいの!?」

 既に覚悟は決めた。
 力を乞うなのはの前に、フェレットはその短い前足で、あの小さな赤い宝石を掲げる。

「これを手に、目を閉じて、心を澄まして。僕の言った通りに繰り返して。……いい、いくよ!」

「……うん!」

――我、使命を受けし者なり
――契約の元、その力を解き放て
――風は空に、星は天に
――そして、不屈の心は
――この胸に

『この手に魔法を! レイジングハート! セーットアップ!』

 直後、赤い宝石から燦然とした輝きが放たれた。
 溢れんばかりの淡い光はなのはを包み込み、雲をも切り裂く光の柱となる。
 やがて光の奔流は収まり、中から一人の人影が現れた。
 学校の制服を髣髴とさせる、白い魔導法衣。胸元の大きな赤いリボン。
 そして手には魔法の杖――レイジングハート。

「! ふえ!? ふえ!? ウソぉ!? な、何なの、コレ!?」

 この剣呑な場には似つかわしくない、可愛らしい出で立ち。
 己の服装が唐突に変わったことに対し、当惑を隠せないなのははパタパタと手を振って慌てふためく。

「お、落ち着いて! とにかく、封印を!」

「ふ、封印!?」

 彼女の見事なまでの慌てっぷりが伝染したのか、フェレットもまた汗を垂らしながら前足をパタパタと振る。

「僕らの魔法は発動体に組み込んだプログラムと呼ばれる方式で、それを発動させる為は術者の精神エネルギーが必要なんです!
 そしてあれは、忌まわしい力の元に産み出されてしまった思念体。
 あれを停止させるには、その杖で封印して元の姿に戻さないといけないんです!」

「一行でお願いします!」

「簡単な攻撃や防御なら願うだけで発動しますけど、より大きな力を必要とする魔法には呪文が必要なんです!」

「わ、わかった! すぐに銀さん助けてくる!」

「人の話聞いてました!?」

 聞くが早いか、なのはは魔法の杖を抱え、フェレットの静止も聞かずに塀の影から跳ねるようにして飛び出す。
 銀時を助けることに頭が一杯で、自身の身の危険など脳の内から完全に剥離していた彼女は、
 無防備にも道の真ん中を駆けて銀時の側まで行こうとする。

「ぎ、銀さんっ! すぐに助け……」

「っ! すっこんでろド阿呆!!」

 明確な怒気が篭った怒鳴り声。
 触角の猛攻を潜り抜け、懐まで入り込んだ銀時は力の限り目の前の怪生物を蹴り飛ばす。
 怪生物はまるでボールのように宙を舞い、電柱に激突してその動きを止める。

「逃げろっつったのが聞こえなかったか、お前は!」

 振り返った彼の顔に浮かぶ、薄く滲んだ血の跡。
 その様相に、なのはの胸はぎゅうと締め付けられる。

「で……でも、私、魔法……」

「素人の付け焼刃でどうにかなるモンじゃねェだろうが! 死にてェのか!?」

 そう叫ぶ銀時の身体が、不意に沈んだ。
 全身の力が一気に抜けたかのようにその場にくず折れ、しかし木刀を杖代わりになんとか立ち上がろうとする。
 左腕に激痛が走る。
 一体いつの間に深手を負っていたのだろう。
 左の腕を包む着物の袖は赤黒く濡れそぼり、ふと中空を見上げれば、
 青白い顔をした自身が映るカーブミラーがそこにあった。
 背後からコンクリートが道路に転がる音。
 先程銀時に吹き飛ばされた怪生物が、まるで怒りを表すように触覚を逆立たせ銀時を見据えていた。

「……いいから……ここは俺に、任せとけってんだよ……」

 フラフラと、覚束ない足取りで銀時は立ち上がる。
 血を流しすぎたことで思考が廻らなくなり、目の焦点すらもまともに合わない。
 だからこそ、怪生物が空高く跳び上がった事に、彼は気付くことが出来なかった。

「……いや……です……!」

 声がした。
 今にも泣き出しそうな、震える声。

『……Stand by Ready.』

 聞きなれない電子音声。
 振り返れば、そこには淡い桃色の光を放つ魔法の杖――レイジングハート。
 そしてそれを握りしめるなのはの姿。

「お前……」

「本当は、怖いです……死んじゃうのも、嫌です……でも……!」

 俯き、なのはは杖を構える。
 両の手でレイジングハートを支え、その先端を夜空へ向けて突き出し、そして顔を上げる。
 その瞳には、薄く涙が溜まっていた。

「目の前で、誰かが傷付くのは……私のせいで、銀さんが傷付くのは、もっと嫌……!
 私なんかのせいで、銀さんが死んじゃうのは、絶対に嫌だから!」

『……Sealing Mode. Set up.』

 淡い光に包まれたレイジングハートの先端が可変する。
 赤い宝玉を包んでいたパーツは音叉状に変形し、光の羽根を思わせる薄桃色の魔力が放出される。

「だから……! お願い、"レイジングハート"!」

『……Divine.』

 レイジングハートの先端へ淡い光の粒子――魔力が集束されてゆき、桃色の光球が生成される。
 ゴルフボールほどの大きさだったそれは、見る見るうちにバレーボールほどの大きさにまで膨れ上がり、
 眩い光で月夜を照らす。

「銀さんを……助けて!!」

『……Buster.』

 彼女の願いに応えるかのように、その力は放たれた。
 圧倒的な魔力が込められたそれは轟音と共に、上空から襲い来る怪生物を飲み込み、消し去り、
 一条の光となって月明かりの元に散っていった。



「ジュエルシード、シリアルXXI……封印」

『Sealing.』

 先程までの喧騒が嘘のように閑寂とした夜闇の中、少女の声が響く。
 恐る恐る杖を伸ばす彼女の視線の先には、薄く輝く、蒼い小さな宝石。
 それは名はジュエルシード。
 先の怪生物を生み出す要因となった、失われし時代の遺産。
 爆発物でも取り扱うかのように、なのはは慎重にレイジングハートの先端をジュエルシードに接触させる。
 途端に接触面から爆ぜる様な光が放たれ、反射的に腕で目を覆い、顔を逸らす。
 だが、眩い光が発せられたのはほんの一瞬だけであった。
 瞳を刺す様な閃光がおさまり、なのははゆっくりと目を開く。
 視線の先にあったはずの蒼い宝石は、いつの間にか姿を消していた。

「あ、あれ……終わったの……?」

「あ……は、はい。成功です」

 目をぱちくりさせて辺りを見回すなのはに、フェレットは呆気に取られた様子で返す。
 だって、そうだ。
 古代の生み出した忌まわしき力を上回る魔力を、こんないたいけな少女が内包していようなど、誰が想像できたであろうか。
 今日初めて魔法に触れた少女が、砲撃などという高等な術を行使できるなど、誰が想像できたであろうか。

「……ったく、余計な真似しやがって……痛てて……」

 朦朧とした声。棒が地面を転がる音。
 向けばそこには、男がいた。
 身体中に薄い傷跡を作り、覚束ない足取りで地を踏み、取り落とした木刀を拾い上げようと身を屈める男。
 彼の姿を薄明かりの中に認め、なのはは思わず顔を綻ばせ、そして駆け出す。
 押し倒すように男――銀時の胸に飛び込むなのはと、尻餅をついて痛みを訴える銀時の姿を見つめ、フェレットは漠然と思う。
 魔法を生み出すために必要なのは、術者の精神エネルギー。
 なれば、あれは想いの力が成せた業なのだろう。
 彼を想うがゆえに起きた、小さな奇蹟だったのだろう、と。

「……ん?」

 不意に銀時が顔を上げ、釣られてなのはも辺りをきょろきょろと見渡す。
 圧し折れた電柱、割れた道路、砕けた石塀。
 辺りを覆う、妙に気まずい雰囲気。
 そして遠方から鳴り響くパトカーのサイレン。
 閑静は既に終わりを告げており、周囲からは新たな喧騒が生み出されようとしていた。

「ふぇ!? ふぇ!? ど、どうしよう! どうしよう銀さん!? このままじゃ捕まっちゃいますよ!」

「あだだだだ! だから暴れんなつってんだろーが! いいからどけ! さっさと逃げるぞ!」

 胸の中で暴れるなのはを押しのけ、奇跡的に無傷だった横倒しになったスクーターを起こし、そのエンジンをかける。
 本日二度目の逃走劇は、こうして幕を開けるのであった。



「土方さん、こいつァ完全にクロでさァ。結界も張らずに居住区で魔法の使用……イカれてるとしか思えねーや」

 沖田達がその場に到着したのは、すでに危機を察知した銀時達が逃げ遂せた後であった。
 現場検証のための道具を持ちながら奔走する仲間達を見やり、沖田は隣で煙草を燻らせる男を見上げる。
 短く、無造作に切られた黒髪。
 若干瞳孔が開いた鋭い目。

「術式は?」

 真選組の副長を務めるその男――土方十四郎は、不快そうに紫煙を吐き出しながら尋ねる。

「調査班の話じゃミッドチルダ式……管理局とその従属世界で主に使われてる術式だそうで。
 こりゃ上の連中が大騒ぎしやすぜ、きっと」

「フン……シンパ連中とアンチがどうなろうと、俺達の知ったこっちゃねーよ。……しっかし……」

 どこか含みのある沖田のその言葉を、しかし土方は鼻で笑って流す。
 だが彼はすぐに表情を険しくし、辺りの惨状を見渡す。
 まるで爆撃でも受けたかのようなその有様。
 一体どれほどの魔力を放てば、これだけの破壊を生み出すことが出来るのか。

「……気に食わねェな。見つけ次第、バッサリいっちまうか」

「やれやれ、土方さんは二言目には『斬る』で困りまさァ」

 腰に差した刀に手をかけ、土方は咥えた煙草を吐き捨てる。
 中間管理職である彼の気苦労を知ってか知らずか、沖田はかぶりを振ってそう漏らすのであった。