なの魂(旧版)

風は軟風、空は快晴。
ぽかぽかと暖かい日の下で、コンコンと物を打ち付ける音が響く。
コンコン、コンコン、コンコン。
そして不意に響く、ゴスッという鈍い音。
先程まで響いていた音は鳴りを潜め、仲良く合唱をしていたスズメ達が一斉にその場を飛び立った。

「うがァァァァァ!!」

凄まじい咆哮と共に、その場に散乱していた木材が吹き飛ぶ。
轟音、振動。
喫茶翠屋の二階は、ちょっとした震源地となっていた

「ねェ、銀さん」

「あ?」

巨大な角材を横倒しにし、かんなで表面を削っていた新八が言う。
大きな鋸でベニヤ板をギコギコと切っていた銀時は、鬱屈そうに返事を返す。

「僕ら、万事屋直しに来たんですよね?
 ……指と家を破壊する音しか聞こえてこないんですけど」

そういう彼らの周りに広がる光景は、家というよりはむしろ出来損ないのログハウスと言った方が良さそうな惨状だった。
明らかに適当に立てられた、柱という名の廃材。
継ぎ接ぎだらけのベニヤ板の壁。
ただでさえ見るに耐えないそれらは、己の金槌でことごとく指を粉砕された神楽の八つ当たりによって、
もはや名目として与えられた機能すら果たせない状態となっていた。

「創造と破壊は表裏一体だよ新八君」

「いつまでたっても創造が始まらないんですけど」

そんなやり取りを続ける間にも、神楽は容赦無く破壊の限りを尽くす。
派手な破砕音をBGMに、新八は黙々とかんなを動かしながらため息をつく。

「やっぱ無理だ。素人が大工なんてできるわけがない」

「バカヤローお前、最近の大工なんて欠陥住宅とか作ってロクなもんじゃねーよ」

「欠陥人間が作るよりマシだバカヤロー」

心底鬱陶しそうに呟く新八に、しかし銀時もまた鬱屈そうな表情で言葉を返す。

「仕方ねーだろ。大工雇うにも、報酬全部旦那に取られちまったんだからよ」

そう。
そうなのだ。
前回の事件の後、なんやかんやで報酬はきちんと振り込んでもらえた。
金額も、家を建て直すには充分なほどだったのだ。
だがそこからが問題だった。
まず、家に帰ってくると直す家が無かった。
いや、元々家などぶっ壊れて無くなっていたのだが、その残骸すらも無くなっていたのだ。
何事かと呆気に取られていると、なのはがしまったという顔をしながら一言。

「そーいえば、ずっと前にお父さんが勝手に取り壊してて……」

へこへこと頭を下げるなのはにとりあえず拳骨を叩き込み、しかし銀時は考え直す。
いやいや、まだ大丈夫だ。
これだけ金があれば、一から増改築しても、まだギリギリセーフだ。
そうタカをくくっていたのだが、詰めが甘かった。
商売人、高町士郎のご登場だ。
残骸の撤去費用、店舗の検査・補修、滞納していた家賃、そして残骸を撤去するまで、店を開けなかった間の損害額。
その他諸々の金を全て支払った、もとい支払わされた結果、銀時の手元には、
たった四枚の千円札だけという現実しか残されなかったのであった。

「……つーか、おかしいだろ。理不尽だろ。なんで俺が全部出さなきゃならねーんだよ。
 半分以上はお天道様の悪戯だろーが。あー腹立つイライラする。あの青い空までもが腹立つ!
 あんなに青いのに!!」

そんなわけで結局自分達の手で家を直さなければならなくなった銀時達なのだが、
ことあるごとに神楽が大暴れをするおかげで、何一つとして上手くいかない。
そもそも新八の言うとおり、素人に大工など、土台無理な話なのである。
世の不条理を嘆きつつ、銀時は空を仰ぐ。

「ぎーんさーん!」

玄関先だった所から聞こえてくる、よく聞き慣れた少女の声。
一体どういう風の吹き回しだ。
そう思いながら、銀時は声のした方を見やる。

「お手伝いにきちゃいました!」

ニコニコと笑みを浮かべながら、友達二人――アリサとすずかを引き連れたなのはは、玄関で元気一杯に手を振っていた。
三人とも、ちょっとしたワンポイントの入ったシャツにズボンという、動きやすそうな服装だ。
どうやらやる気は充分らしい。
だがしかし、思わぬ援軍の登場に、手放しで喜べるほど銀時は純真ではなかった。

「……で、何が望みだ?」

手伝う代わりに何かしらの謝礼を要求されると踏んだのだろう。
財布の中身を確認しながら横目で目配せをする銀時に、なのはは頬を膨らませて抗議をする。

「あ、ヒドい! 珍しく善意から手伝ってあげようと思ってたのに!」

「いや、自分で珍しくって言っちゃってどーすんの……」

せっせとかんなを動かしていた新八は、汗を拭いながら顔を上げ、なのはを見やる。
ふと感じる違和感。
何かが違う。いつもと違う。
目を細めてなのはをじっと見つめ、ようやく新八は違和感の正体に気付いた。

「……あれ? なのはちゃん、そのリボン……」

いつも髪の毛を二つ括りにしているリボン。
それが、いつもと違ったのだ。
普段は真っ白い布のリボンだったのが、今日の彼女は、どこか見覚えのある
黒いリボンを、大きな蝶々結びにして髪に結えていた。
なのはは照れくさそうに新八の傍へ行き、ひそひそと耳打ちをする。

「……交換したんです、フェイトちゃんと。思い出になる物、これくらいしかなかったから……」

新八は合点がいった様子で頷く。
どこで見たのかと思えば、確かにフェイトが結えていたものだ。
きっとあの時自分達が去った後に、二人で交換したのだろう。
その光景を想像してみると、妙に微笑ましくなってくる。

「そっか」

頬を緩めて、なのはを見やる。
なのはも釣られて、控えめに笑う。
そんな二人の後ろをアリサが我が物顔で歩き、すずかがおどおどとした様子でその後に続く。

「相変わらずボロい家に住んでるわね。せめて屋根ぐらいつけたら?」

小姑のようにその辺の壁に指を這わせて、指先に付いた埃を見ながらアリサはため息をつく。
それも、心底呆れた様子で。
さすがにこれには銀時もカチンときたのか、

「テメッ、庶民が相手だからってバカにしてんじゃねーぞ。
 ダンボールだろーがリヤカーだろーがなァ、住んでる奴にとっちゃ立派なマイスウィートホームなんだよ」

「銀さん、それ以前に人が住めるトコじゃないです、ここ」

銀時の主張は新八のツッコミによってあっけなく粉砕された。
機嫌悪そうに舌打ちをし、銀時は再びベニヤ板を切る作業に戻る。

「つーか、手伝いにきたんなら口動かす前に手ェ動かせっての。
 こっちは猫の手でも借りてェ気分だってのに……」

ぶつぶつと不満を垂れながら鋸を動かす。
ぞりっ、という耳障りな音が聞こえたのは、まさにその時だ。
なんだろう。まるで、何か金属質なものが柔らかい物と深くこすれ合ったような。
ありていに言えば、肉が削れるような音だ。
ベニヤを踏み押さえている左足に視線を落としてみる。
鋸が食い込んだ親指から、穴の開いた水道管のように血が噴出していた。

『うがァァァァァ!!』

そして生まれるもう一人の狂戦士。
破壊者と化した銀時と神楽は、奇声を発しながらその辺の資材に当り散らす。

「……ダメだこりゃ」

木屑が飛び散り、埃が舞い上がる地獄絵図の中心で、新八は頭を抱えて呟く。
もう自分の家どころか下の店舗までぶっ壊してしまうんじゃないか?
そんな危惧を抱いていると、不意に玄関先から足音が聞こえてきた。
今日は妙に来客の多い日だ。
そんなことを思いながら、玄関へ視線をやる。

「すいませーん、お届け物でーす」

帽子を目深に被った細身の男が、人間の子供くらいはありそうな大きなダンボールを抱えて、玄関先に立っていた。



なの魂 〜第二十五話 子供の頃の夢はいつだって色褪せない〜



配達員から受け取ったダンボールを床に置き、銀時は首を傾げながらそれを見下ろす。
こんな巨大な荷物、一体どこの誰が送ってきたのだろうか。
送り主の名前などはどこにも書かれておらず、唯一手がかりになりそうなものは、
箱の真上に貼り付けられた茶封筒のみ。
なんのためらいもなく銀時はそれを取り、内容物を取り出す。
それは一通の手紙だった。

『金時君。
 長らく連絡をとっていませんでしたが、いかがお過ごしでしょうか。
 僕の方は相変わらず世界を縦横無尽に飛び回っております。やっぱり次元(うみ)はいいです。
 先日地球によることがあったので金時君に会いにいこうかと思ったのですが、仕事が立て込んでしまい、
 とうとう会えず終いになってしまったのが、非常に残念です。
 実は今回筆を取ったのは、君に言いたいことがあったからです。
 昔君は、

 「オイ茨木(いばらぎ)、またキャバクラいったらしいな。今度俺も連れてけ」

 と言っていましたが彼は茨木(いばらぎ)じゃなく茨木(いばらき)君です。
 今更と思いましたが、やっぱり人の名前とか間違えるのは失礼だと思います。
 それじゃ元気で、金時君。
                                 坂本辰馬

 P.S.
 家に荷物落としちゃってゴメンネ。
 (このP.S.って、手紙書くと使いたくなるね(笑))』

「笑えるかァァァァァ!!!(怒)」

どうやら万事屋が隕石によって粉砕された原因は、この手紙の主にあるらしい。
凄まじい剣幕で手紙を破り裂き、辺りに真っ白な紙吹雪を舞わせて銀時は髪を掻きあげる。
その姿、ある意味白夜叉。

「本文とP.S.が逆コレェェェ!! つーかやっぱりお前の仕業かァァァァァ!!!
 人の家壊しといてP.Sですませやがったよ! 自分も人の名前間違えてるしよォォォ!!
 よしんばP.S.が世界平和を願う意味だったとしても許せねーよコレは!」

下手に近寄って八つ当たりでもされたら、たまったものではない。
地団太を踏んで叫びまわる銀時の姿に、思わずなのははあとずさる。
ほとぼりが冷めるまで、しばらく離れていたほうが良さそうだ。
そんなことを考えていると、彼女の目の前で神楽が果敢にも銀時に声をかけた。
しかも、酷く蔑むような表情で。

「類は友を呼ぶアル」

「友達じゃねーよこんなん! 死んでくんねーかな! 頼むから死んでくんねーかな!
 スゴク苦しい死に方してほしい!」

ぐわっと大袈裟に身体を逸らし、頭を抱えて銀時は怒鳴る。
そんな銀時を見ながら、頬に指を当ててすずかは首を傾げた。

「……坂本って……もしかして、"快援隊"の?」

"快援隊"。
聞き慣れぬその単語に、なのはもまた首を傾げ、不思議そうな顔をする。

「知ってるの? すずかちゃん」

「うん。実際に会ったことはないんだけど……」

「アタシも、名前だけなら聞いたことあるわね。
 お呼びがかかれば、どれだけ危険で辺境な別世界でも駆けつける、超巨大貿易・運送会社"快援隊"。
 そこの社長さんらしいけど……」

話しに割って入ってきたアリサの口から、さも当然のように零れ出た言葉に、なのはは目を丸くする。
貿易商の社長。
それも海洋を舞台にしたちゃちな企業ではなく、次元の海をまたにかける、頭に超が付くほどの大企業だ。
そんな所のお偉いさんから直々に手紙が届くとは。
しかも手紙の内容から察するに、銀時とは古くから付き合いがあるらしい。
あの万年金欠の銀時と、大企業の社長が?
なのはは、アリサは、すずかは、今世紀最大の疑いの眼差しを一斉に銀時へと向ける。
視線の先で暴れる大人気ない男は、どこからどう見てもそんな大人物との知り合いには見えなかった。

「落ち着いてくださいよ銀さん、手紙はあくまでオマケですよ。坂本さん、これを送りたかったんでしょ」

「何アルか、この荷物?」

新八が銀時をなだめ、神楽がダンボールの外側を叩きながら問いかける。

「きっとこっちにお詫びの品が入ってるんですよ」

「お詫びねェ……」

ひとしきり暴れ終わった銀時は、顎に手をやりしばし黙考。
お詫びといってもこれだけの大きさの箱。
一体何が入っているのやら。
と、そこまで考えたところで銀時は思い至る。
金持ちのボンボンがこういう時に送ってくるお詫びの品といえば、一つしかない。
なのはや新八達もそれに思い至ったのか、凄まじい表情で、ガムテープで厳重に封じられたダンボールを睨みつける。

(……金!?)

六人は一斉に顔を見合わせ、示し合わせたかのように頷く。

「んだよ、それならそーと早く言えっつーの! おちゃめさん!
 もうホントッ、あいつったら俺に勝るおちゃめっぷりだなホント!」

まず先陣を切ってダンボールに飛びつき、意気揚々とテープを剥がし始めたのは銀時だ。
残る五人はその後ろから、ある者は物珍しそうに、ある者は目を燦然と輝かせてその様子を眺める。
銀時はもったいぶるように少しずつダンボールを開いていき――。
突如、箱の中から白い煙が溢れ出てきた。
不審に思い、すぐさま箱を全開にする。

「どーも」

「この度はデリバ……」

バタンッ!
という力強い音と共に、脂汗を垂らしながら目にも留まらぬ速さで箱を閉める。
閉じた瞬間に、

『ぶごっ!』

というおっさんの悲鳴のようなものが聞こえた気がしたが、おそらく気のせいだ。
銀時は左手で両の目尻を押さえながら、

「あーコレ夢だなオイ。支離滅裂だもんありえねーもん」

そんな彼の後ろから聞こえてくる少女達の声。

「師匠ネ。ちっちゃいめだか師匠が入ってたネ」

「いやいや、池やん元から小っちゃいアル」

「口調揃えてんじゃねーよ! どっちがどっちだか分かりゃしねーんだよ!」

振り向き怒鳴った先では、神楽とアリサが何故かしたり顔でこちらを見ていた。
しかしまあ、こんな所にあんな大物お笑い芸人が詰まっているはずが無い。

「いやいや、今の人形でしょ? 人形ですよ。もっかい見てみましょうよ」

若干顔を引きつらせながら、新八が銀時に促す。
銀時は若干の躊躇をしたものの、結局は箱に向き直って、

「夢だって。いい加減目を覚ませよ俺」

再び未知への扉を開いた。
先程と同じように煙が溢れ出し、その向こうに二つのシルエットが見える。
目を凝らしてよく見るまでも無く、そのシルエットから――あろうことか、声が発せられた。

「どーも」

「この度はデリバ……」

「オイェェェェェ!!!」

銀時の強烈な回し蹴りがダンボールにクリーンヒットした。
ダンボールはジャイロ回転をしながら吹き飛び、砂煙の渦を作りながら、崩れかけの壁に盛大にぶつかった。
爆発的な轟音と共に建材が吹き飛び、煙を巻き上げてダンボールの姿を隠す。
銀時はかぶりを振りながら、

「夢だ夢」

「ちっちゃいオッさんの悪夢にさいなまれてるんですよ、僕ら」

「じゃあ解散……目ェ覚ましたらもっかいミーティングな」

『うース』

呆気にとられるなのは達を置いたまま、新八と神楽を連れてさっさとその場を離れようとする。

『待たんかィィィ!!』

しかし、そうは問屋が卸さなかった。
突如として聞こえてきた怒鳴り声に、銀時達は足を止め振り返る。

「てめーら人の話を最後まで聞けバカヤロォォォ!!」

「この度はお前デリバリー大工をご利用頂きありがとうございますって言ってんだよコノヤロォ!!」

声を放ったのは、二つの人影だった。
いや、人と言ってもいいのだろうか?
もくもくと上がる砂煙の中から見え隠れする二つの影は、確かに人の形をしていた。
大きさは、だいたいなのはと同じくらいだろうか。
しかし、その二人は普通の人間とは決定的に違うところがあった。
肌の色だ。
一人は青。
一人は赤。
目によろしくない原色系の肌をもった二人は、身長に似合わず仁王のような険しい顔立ちをしていた。
どこからどうみても地球人ではない。
しかし銀時は、別段珍しがる様子も無く、

「デリバリー大工? しらねーよそんなもん。この度はそんなもんしらねーから帰れ」

「なんだその言い草はァァァ!」

「遠い世界からわざわざ家直しに来てやったんだぞ!」

冷たくあしらわれた二人は銀時に対してがなりたてる。
そんな彼らが放った言葉に逸早く興味を示したのは、新八であった。
今、彼らは確かに「家を直しに来てやった」と言った。
そんな彼らが箱詰めにされていて、しかもその箱の差出人は坂本。
つまり、ということは……。

「……もしかしてあなた達、坂本さんに頼まれて」

新八が言わんとすることを肯定するように、二人の異人は大袈裟に頷く。
胸の前で腕を組み、ふんぞり返りながら大声で、

「そうだよ! 俺達は依頼があれば、国も世界もまたいで家を建てに行く……」

「ウンケイ! そして」

「カイケイ!」

『デリバリー大工なんだよ!』

これが漫画なら、彼らの背後に『ドドン!』という擬音でも出ていたことだろう。
しかし、だがしかし。
彼らがそこまで自分たちの存在をアピールしたにもかかわらず、銀時は相も変わらず
無関心な様子で、ポツリと一言だけ呟いた。

「チェンジで」

「いや、そんなんないから!」

赤い異人、ウンケイが銀時に食って掛かったのを皮切りに、再び万事屋跡地は壮絶な喧騒に包まれる。
大工二人と銀時に神楽、そして何故か加わってきたアリサのおかげで、本日の喧騒度は普段の三割り増しだ。
これ以上騒ぎ立てると、階下で営業中の喫茶店の従業員達がプッツンしそうな気がするが、
そこまで考えが及ばないくらい頭に血が上った五人は、ギャーギャーと子供のような口喧嘩を繰り広げる。
そんな彼らを止めようにも止められずにオロオロするすずかの後ろで、新八となのはは深い深いため息をついた。

「……新八さん……坂本さんて、どんな人なんですか……?」

いくらお詫びとはいえ、大工を送ってくるような奇天烈な人物など九年の人生の中でも見たことが無い。
知ってみたいような、知りたくないような。
複雑な心境で、なのはは新八に問いかける。

「そうだね……簡潔に言うなら……」

ほんの僅かに思考を巡らせる。
何かこう、もっとオブラートに包んだ言い回しは無いものか。
そう思ったが、全く思い浮かばなかった。
やはり彼を表すには、この一言が一番適切だろう。

「頭カラッポのバカだよ」

新八がそう呟いたのと、怒れる喫茶店オーナーのお叱りが飛んできたのは、ほぼ同時であった。



雲ひとつ無い青空の下、人々は呑気に人生を謳歌していた。
車が、バイクが、レールウェイが町を縦横無尽に走り回り、しかしその割には耳障りな喧騒も聞こえず、
有害な排気ガスすらも殆ど発せられることは無い。
出来損ないのSFのような地球の町並みより幾分近未来的なビル群は、機能美よりもむしろ
人々の目を楽しませるための美を追求しているように見える。
――ミッドチルダ。
時空管理局発祥の地であり、現在確認されている中では、最も魔法文化が発達しているとされている世界だ。

「……ぶえっくしゅい!!」

そのミッドチルダの首都である都市、クラナガンの中央を伸びる高架道路を
軽快にかっ飛ばすト大型ラックから聞こえてきたくしゃみが、騒音に掻き消されること無く辺りに響き渡った。
そもそも、掻き消すほどの騒音が無かったというのが正しいだろう。
静かなのはいいが、静か過ぎるのも困り物だな、と、トラックを運転する女性は思い、隣で鼻をすする男に目配せをする。

「なんじゃ、風邪か? バカは風邪ひかんちゅーのは、ありゃウソか」

切れ長のツリ目に、肩まで伸びた綺麗な蒸栗色の髪。そして歯に衣着せぬ毒舌。
極々一部の人が変な意味で喜びそうなシチュエーションだが、しかし男は彼女の言葉に
「アッハッハ」と笑い返す。

「アッハッハッハ! 誰かがわしの噂しちょるよーじゃのー! アッハッハッハ!」

天然パーマの黒髪に、目元を隠す真っ黒いサングラス。
そして洋服に下駄という珍妙極まりない出で立ち。
彼――坂本辰馬は助手席で豪快に笑いながら、隣で運送用のトラックを駆る女性、陸奥に目をやる。
もちろん、彼は観光などのためにここに来たわけではない。仕事だ。
クラナガンに所在する時空管理局地上本部へ物資を届け、そして今現在、その帰路へ付いているところだ。
地球人の、しかも元攘夷派である彼が時空管理局相手に商売をしているというのは、傍から見れば不思議に思えるかもしれない。
しかし彼の持つ、他の攘夷志士とは一風違った思想を鑑みれば、それはなんら不思議なことではなかった。
『人を動かすのは、武力でも思想でもなく利益』だ。
目先のことに囚われず、将来を見据え、地球と、それに関わる全ての世界との関係調和を、商売を通じて図る。
そういう大儀を彼は持っていたのだ。
まあ普段の彼は、そんな事を微塵も感じさせないダメ人間なのだが。

「……で、本当に良かったのか? もしバレたら、仕事が貰えんどころの騒ぎじゃァありゃせんぞ」

そんな彼に、陸奥は問いかける。
その問いの意味するところを理解し、しかし坂本は相変わらずバカ面を晒して豪快に笑ってのけた。

「アッハッハッハ! 友達からの頼みじゃ! 無下に断るわけにもイカンじゃろーて!
 それに、向こうも地球(こっち)にちょっかい出してきちょったみたいじゃし、これでおあいこじゃて!」

あまりにも楽天的過ぎる言葉に、思わず陸奥はかぶりを振る。
クールで感情を表に出さないことで有名な彼女だが、この時ばかりはため息までついてしまった。
――まったく。うちの大将は何を考えとるのか、わかりゃァせん。
そんなことを考える陸奥の肩をバシバシと叩きながら、坂本は心底楽しそうに笑ってのけるのだった。

「心配せんでも、ヅラなら上手くやりよる! アッハッハッハ!」



時空管理局地上本部。
その敷地内の緑地に、管理局の制服を着込んだ亜人が二人いた。
一人は、どこにでも居そうな黒髪の優男。
しかしそのシルエットは普通の人間とは大きくかけ離れていた。
頭に生えた一対の猫耳と、尾てい骨の辺りから生えた二本の尻尾。
日本のご老人達が見れば、猫又が出たと言われて塩でも投げられること請け合いだろう。
ちなみに彼、局内でもたまに新人から使い魔と間違えられることがあるのが密かな悩みらしいが、
まあそんなことはこの際どうでもいい。
もう一人はシルエットこそ人間だったが、それでも『普通の人間』というのは憚られるような外見であった。
若草色の髪を後ろで結えた、中性的な顔立ちのその人物は、なんと身長が人の顔の大きさほどしかなかった。
猫の人の肩にぶら下がったまるで妖精のようなその人物もまた、新人に使い魔扱いされることがあるのが悩みらしいが、
まあそれもどうでもいいことである。
ともかく、そんなエセ使い魔コンビがこんなところで何をしているのかというと……

『第127管理外世界
  第97管理外世界所属艦艇が発砲。管理局警備艇乗組員が死亡』

そんな見出しが大きく書かれた新聞を広げながら、その辺をブラブラしているだけであった。
ぶっちゃけ、サボりである。

「……またあの連中か。これで何回目だ? まったく……」

不機嫌そうに尻尾を揺らしながら、猫の人がぼやく。
妖精の人はぐっと身を乗り出して新聞を覗き込みながら、

「……で、お互いの言い分は?」

「地球側は『領域侵犯に対する正当な防衛行動であり、当方に一切の責任は無い』。
 で、うちの連中は『無警告、かつ威嚇射も無しに当局所属艦を沈めようとしたその行為は、
 極めて横暴であり非人道的である。可及的速やかな、誠意ある謝罪を求める』ですと」

呆れたようにため息をつき、猫の人は新聞を折り畳んだ。

「……んで、今回の件についてはどう思われますかね? 曹長殿」

腰にぶら下げた杖型のストレージデバイスを、マイクのように妖精の人に向ける。
どうやらこのちっこい人、見かけによらず下士官としては最高の地位に就いているようだ。
曹長殿は顎に手をやり、う〜んと難しそうな顔をして首を捻る。

「元々向こうの支配下だったからねぇ、その世界。勝手に首突っ込んだこっちが悪いよ。
 まあ、あちらさんが軍事演習中だったのが最大の不幸だったってことで……」

「だからって無警告で発砲はあんまりでしょう。
 まったく……野蛮人の考えることはよく分かりませんね」

誰に向けるでもなく、軽蔑の眼差しを見せる猫の人。
そんな彼を咎めるように、曹長殿は彼の後頭部にチョップを叩き込む。
大きさ相応の威力しか持っていなかったそれは、痛いというよりむしろくすぐったかった。

「滅多なこと言うもんじゃないよ。坂本サンの耳に入ったらどうすんのさ。
 あの人達が格安で物資を仕入れてきてくれるから、地上本部はかろうじて持ってるっていうのに……」

言うと同時に溢れてくるため息。
二人は互いの顔を見合わせ、そして再び深いため息をつく。

「そうなんですよねぇ……金も人員も、全部本局が掻っ攫っていくし……
 あーなんか考えるだけでイライラしてきた、腹立つ、あの青い空までもが腹立つ! あんなに青いのに!」

ぐしゃぐしゃと手にした新聞を引き裂き、どこぞの銀髪侍のようなことを言いながら猫の人は天を仰ぐ。
曹長はあはは、と乾いた笑いを漏らし、とりとめもない話を続ける。

「なんにしても、物騒な話が絶えないね。
 こないだも、本局行きのターミナルで不審者が見つかったっていうし……」

「不審者?」

「非番だった局員が発見したおかげで、大事になる前に捕まったけどね」

「あー、あの話ですか。確か捕まえた局員って、首都防衛隊のゼス……」

そこまで会話を続けたところで、不意に猫の人が足を止め、そして一点を凝視し始める。
何事かと曹長も彼と同じ方向を向き、そして言葉を失った。
……緑地のど真ん中に、土管が立っていたのだ。
その土管は人の腰ほどの高さがあり、金属製なのだろうか、緑で塗装された表面は、僅かな光沢を放っていた。

「あ、あからさまに怪し過ぎる……」

というか、土管などというレトロなもの、このミッドチルダにおいては
郊外の田舎でも滅多に見かけることは無い。
怪しい通り越して珍しい。

「曹長、ここは俺が……」

曹長を肩から下ろし、警戒心剥き出しで猫の人はデバイスを構える。
土管の穴にデバイスを向け、少しずつにじり寄り、ゆっくりと穴の中を覗き込む。
その、瞬間だった。

「ごふぉ!?」

土管から赤い何かが飛び出したかと思うと、鈍い音と共に猫の人が悲鳴を上げる。
顎の先から脳天まで貫くような衝撃を受けて、彼は一撃の元に昏倒した。
そしてその彼の隣に、見事なジャンピングアッパーを喰らわせた何かが着地をする。
真っ赤な服に、真っ青なオーバーオール。
ふさふさに蓄えられた髭に、うざったらしいまでの長髪。
そして目深に被った赤い帽子と、帽子の額の辺りに付けられた『K』の文字が描かれたカンバッジ。
どこかで見たようなその姿に曹長は戦慄する。
いや、まさか。そんなまさか。
あんな大人物が、こんなところにいるなんて!?

「ア、アンタまさか……!? 世界一有名な配管工、マリ……」

その言葉の続きが紡がれるより早く、彼の脳天に衝撃が走った。
それが木槌で頭を殴られたことによるものだと彼が気付いたのは、後に目を覚ました後であった。
その場に垂れ伏す二人の局員を見やり、長髪の男は帽子を脱いでポツリと一言、呟いた。

「マリオじゃない……カツオだ」



先ほどの局員から剥ぎ取った制服とデバイスを身につけ、彼、桂小太郎は地上本部地下に存在する
収容所の入り口へと立った。
あらかじめ偽造しておいたカードキーを端末に照らす。
二、三度短く電子音が鳴った後に、入り口の扉がゆっくりと開いた。
なんの躊躇いも無く、桂は収容所へと踏み込む。
彼の両脇には昔ながらの牢屋などではなく、重厚な扉と強化ガラスで厳重に封印された個室が、
薄暗い通路の先までずらっと並んでいた。
桂がこのような危険極まりない敵陣のど真ん中まで潜り込んで来たのには、勿論理由がある。
時空管理局本局内の、超巨大データベース"無限書庫"。
そこへ送り込んだ間者が、三日ほど前にここクラナガンで管理局に捕らえられたという情報を得たのだ。
袂を分けた旧友が付け狙う、災厄の魔導書"闇の書"。
そもそも情報に乏しい桂は闇の書に関する知識を少しでも得ておこうと、銀時の留守中に何度かシグナム達に接触を図っていた。
しかし彼女らから返された答えは、どういうわけか当人達にも『あまり分からない』ということだけだった。
完成のためには、多くの魔導師、魔法生物の犠牲が必要なこと。
完成すれば、あらゆるものを超越した力を手にすることが出来ること。
その他諸々、彼女達から仕入れた知識は、そのどれもが自分も知っているものばかりであった。
このままでは埒が明かない、ということで、おそらく多くの情報が収められているであろう無限書庫へ間者を単身送り込んだのだが、
その結果がこれだ。
情報を得るどころか、目的地に着く前に捕まってしまうなどということは、さすがの桂も想定外のことであった。
どうやら管理局の力を少々甘く見ていたらしい。
己の見通しの甘さのせいで、仲間一人を危険に晒してしまった。
その責任を取るため、こうして旧友である坂本の協力を取り付け、仲間が捕らえられていると目される地上本部への潜入を試み、
そして現在に至るというわけである。
しかしまあ、土管に入り、某配管工のコスプレをして潜入するなどといったことを考え付くのは桂と坂本ぐらいのものだろう。
ともかく、収容施設の奥深く潜り込んだ桂は、とある個室の前で足を止め、そしてその中に居る人物を強化ガラス越しにじっと見つめた。
白い体と黄色いくちばし。
全体的にペンギンっぽい寸胴なフォルム。
……前言訂正。
桂が見ていたのは謎の人物ではなく、謎の生物であった。

「……エリザベス!」

言うが早いか、桂はカードキーを使って個室の扉を勢いよく開く。
部屋の隅で体育座りをしていたペンギン、もといエリザベスは、驚いたように顔を上げた。
まあ表情はほとんど変わって無いので、ただのフィーリングの問題なのだが。
エリザベスに駆け寄り、桂は熱い抱擁を交わす。

「無事だったかエリザベス! 心配したのだぞ。
 さあ、こんな所に長居は無用だ。すぐに逃げ……」

ゴンゴン、と壁を叩く音が聞こえたのは、その時だ。
鈍器代わりのデバイスを構え、即座に後ろを振り向く。
音源は、廊下を挟んだ向かいの部屋からのようだ。
強化ガラス越しに見えたその姿は、白い身体に黄色いくちばし。
全体的に寸胴な、何処かで見たような謎の生物。
ありていに言えば、今自分が抱擁していたエリザベスと、全く同じ姿の生物であった。

「……あれ?」

嫌な予感がし、桂は恐る恐る後ろを振り返る。
無機質かつ無慈悲な銀色の球体が、その青い瞳をこちらへ向けていた。



爆発、轟音、怒鳴り声。
クラナガン近郊の廃棄都市は、ド派手なアクション映画の撮影シーンの如く活気付いていた。
もとい、殺気立っていた。

「ええい! 幻術とは卑怯な!」

いつの間にか普段の和服に着替えた桂は、本物のエリザベスを従え廃棄都市を縦横無尽に駆け回る。
まさか幻術を使って固定砲台をエリザベスに見立てていようとは、完全に予想外であった。
そして咄嗟に避けた砲台の攻撃が、本物のエリザベスが捕らえられている部屋の扉を上手いこと吹き飛ばしたのも予想外であった。
しかし、直後に耳障りな警報が鳴り響いたのは、完全に予想の範疇だった。
隠し持っていた爆薬で砲台を粉砕。
置き土産といわんばかりに収容所のいたるところに低殺傷性の散弾地雷を設置。
騒ぎを聞きつけた陸士達がトラップに気を取られている隙に地上本部の敷地から脱出。
そして、逃げに逃げた結果……

「そこの長髪の男! 直ちに止まりなさい! 従わない場合、容赦なく攻撃を加えます!」

こうして、局員達に追われるハメになったのであった。
とは言うものの、その数自体は決して多くない。
せいぜい十人前後だ。
先のトラップが予想以上に効いたのだろうか?
そんな疑問を抱きつつも、桂は懸命に逃走を続ける。
もちろん、彼を追う局員達はそれを良しとしない。

「……なるほど。それが答えね」

先ほど桂に警告を発した女性――クイント・ナカジマ准尉は、
すぐ隣を併走する女性――同部隊所属の准尉、メガーヌ・アルピーノに目配せをし、脚部のローラーブーツ型デバイスを
最大稼動させる。
凄まじい砂煙と共にクイントの身体が爆発的に加速し、桂との距離を見る見る縮める。
続いて、メガーヌの足元に薄い紫色の魔法陣が展開される。
淡い粒子を放つそれは不気味に輝き、そして桂の足元に全く同じ陣が展開される。

『桂さん。下、下』

そう書かれたボードをエリザベスが掲げるのと同時、桂は横っ跳びにその場を離れた。
一瞬送れてエリザベスも桂と同じ方向へ跳び退る。
それとほぼ同じくして、先ほどまで桂達が居た地面から、無数の鎖が飛び出してきた。
まるで自らの意思を持つかのように蠢く鎖は、しかし桂を追うことなく地面へ引っ込む。
拘束系の魔法の一種か、それとも召還した無機物を魔法で操っているのか。
条件反射的に敵からの攻撃の分析を行う桂だが、今はそんなことをしている場合ではないとすぐに思い直す。
だが、その一瞬の思考は、既に命取りとも言えるほどの隙となっていた。

「リボルバー……!」

猪突猛進的に桂へと突っ込むクイントが左手を突き出す。
両の拳に備えられたデバイス、リボルバーナックルから一発ずつ、合計二発のカートリッジが廃莢される。
突き出された左の拳の先に、サッカーボールほどの大きさの、空色の光球が生成される。

「ショットォォォ!!」

一喝。
目の前に浮かぶ光球に、同じように右手に生成させた光球を、殴り飛ばすように叩き込む。
瞬間、二つの光球は勢いよく破裂し、まるで散弾のような魔力弾の雨霰が桂へと襲い掛かった。
泡を食ったような顔をして、桂は腰に差した刀に手をかける。
地面や廃ビルのような非生物に被害をもたらさないところを見るに、あの攻撃はどうやら非殺傷性のもののようだ。
だが、魔導師でもなんでもない自分にとっては、殺傷性魔法となんら変わることの無い危険な攻撃だ。
刀を引き抜き、向かってくる魔力弾を片っ端から斬り落とす。
エリザベスもまた、手にしたボードで魔力弾を叩き落す。

「容赦はしないと言ったはずよ。お侍さん」

しかし、足を止め迎撃を行うのは愚策であったと、今更ながら気付く。
目の前には、自らが弾丸と化した女性局員の渾身の右ストレートが迫っていた。
空いた左手で、潜入時に局員からくすねてきた杖型デバイスを持ち、眼前の拳を受け止める。
次の瞬間には即席の盾にされたデバイスは、甲高い悲鳴を上げながら、ど真ん中から『く』の字にひしゃげていた。
後ろっ跳びに距離を取り、刀を鞘に収めながら桂は口の端を釣り上げながら呟く。

「良い目だ。やはり人妻は、勝気で活発な女子に限るな」

「んなっ……!?」

何故か顔を紅潮させて動きを止めるクイント。
というか、何故に桂は、彼女が人妻であることを知っているのであろうか?
答えは簡単。
人妻属性持ちの彼は、挙動や雰囲気だけでその人が未婚か既婚か見分けることが出来るのだ。
まさかこんなところで彼の女性趣味が役に立つとは、どこの誰が予想できようか?
いや、できるはずも無い。反語。

「……"んまい棒"」

ともかく、そんなこんなで一瞬の隙を作り出した桂は袖の下へ手をいれ、
袋に包まれた棒状の物を取りだし、

「"混捕駄呪"(コーンポタージュ)!!」

勢いよく地面に叩きつけた。
同時に桂の足元から、もくもくと真っ白な煙が舞い上がる。
煙は瞬く間に辺りを覆いつくし、一寸先すら見えないほどに局員たちの視界を覆い尽くす。

「レトロなものを……!」

口元を押さえながらクイントは舌打ちをする。
まさか煙幕などという前時代的な手段で、文字通り煙に撒かれるとは。

「まだ遠くには行っていないはずだ! すぐに探せ!!」

行動を共にしていた局員の一人が声を張り上げる。
言われるが早いか、局員たちは一斉に白煙の中から脱出する。
ある者は煙の中心へデバイスを向け警戒を行い、またある者達は周囲に散り、入念な探索を開始する。

「……見つけた!」

そう呟き、突如として駆け出したのはメガーヌであった。
乱立する廃ビル群の隙間から桂の姿を認めた彼女は、仲間も連れず単身桂の元へ向かう。
尉官が取るにしては、あまりにも軽率な行動。
相手はたった二人(一人と一匹か?)の、質量兵器に頼らざるを得ない非魔力保有者というその事実が、
彼女の心に僅かな慢心をもたらしたのだろう。

「先行は危険です、アルピーノ准尉! すぐに戻って……」

局員の一人が叫ぶのと、メガーヌのすぐ脇にある細身のビルから破滅的な爆発音が聞こえてきたのは、ほぼ同時だった。
指向性爆薬により基部を完膚なきまでに破壊された廃ビルは、自身の巨体を支えきれずに倒壊を始める。
言うまでも無く、メガーヌの方へ向かってだ。
思わず彼女は足を止めて空を仰ぐ。
そのまま走り抜けていれば、あるいは助かったかもしれないというのに、だ。
既に回避など間に合わない距離までビルは迫り、しかしメガーヌは防御魔法を行使し、精一杯の抵抗を試みる。
先ほどあの男の姿を見つけることが出来たのは、偶然ではなかったというのか?
自分達をこの罠にはめるために、わざと姿を晒していたとでもいうのか?
歯噛みする彼女の頭上に、『頭を冷やせ』と言わんばかりに超重量の建材が音を立てて圧し掛かった。
あまりの音の大きさに、そして巻き起こる砂煙に、その場にいた全ての者が、思わず耳を塞ぎ目を瞑る。
風圧で髪と制服がたなびき、破壊の残響音が耳の奥で響く。

「……メガーヌ、生きてる!?」

苦々しい表情でクイントは声を張り上げる。
返事は無い。
自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
だが、最悪の事態を何とか頭の中から閉め出し、クイントは積みあがった瓦礫の元へと駆け出す。

「な、なんとか……」

か細い声が聞こえてきた。
思わず頬の筋肉を緩め、次いで辺りを見回し……そして、彼女は言葉を失った。
目の前の親友は、首から下が無かった。
というと語弊がありそうだが、要するに身体を瓦礫の下に埋められ、首から上だけが外気に触れている状態なだけである。
煤まみれ、砂まみれになった首だけの彼女の姿はあまりにもシュールで、もうこのままギャグ漫画のワンシーンとして使っても
差し支えないんじゃないか? とすら思えるほどだった。
というか、助かったこと自体がギャグとしか言いようが無い。
まあそれはともかく。
親友をこんな屈辱的な目に遭わされて冷静で居られるほど、クイントはクールな女ではない。
どちらかといえば熱血硬派だ。

「……上っ等……! とっ捕まえて顔面雑巾の刑にしてやるわ! 覚悟なさい!!」

そんな彼女がこの状況でとる行動といえばただ一つ。
犯人逮捕に全力全開、である。
肩をワナワナと震わせていた彼女は再び脚部のデバイスをフル稼働させ、桂が逃げたと思しき方角へかっ飛ぶ。
残された局員たちは慌てた様子で、クイントに追従していくのであった。

「……誰かー、助けてくださーい」

一人残されたミセス・薄幸は、誰に言うでもなくそう呟いたとか何とか。



「しつこい連中だ……貴様らと遊戯をしている余裕は無いと言っておるだろう!」

逃げる、逃げる、人ごみを掻き分けて桂は逃げる。
廃棄都市からどうにか逃げ延びた桂が、次に向かったのはクラナガン市内であった。
木を隠すには森の中、人を隠すには人の中、ということだ。
幸い今日は休日だったらしく、市内はどこぞの歩行者天国もビックリなくらい通行人で溢れ返っている。
これだけの人ごみ。空を飛べない陸士にとっては、かなり大きな障害となりえるだろう。
加えてこちらは、常日頃から真選組を相手に、人ごみを利用した逃走劇を繰り広げている。
逃げ切れない道理はない。

「ナカジマ准尉! 人が多すぎて、これ以上の追跡は……!」

桂の目論見通り、局員達は通行人の波のおかげで足止めを食っているようだ。
肩越しに背後を見やりながら、桂は一人ほくそ笑む。
しかし、そうやって喜んでいられるのは、そこまでだった。

「お任せあれ! こんな時の……」

クイントの足元に展開される、大型の魔法陣。
次いでそこから、空色の光の帯が放たれる。

「"ウイングロード"!!」

人々の頭上を超え、桂のすぐ傍まで伸びきったその帯は、まるで魔力で出来た『道』のようであった。
……いや、それは『道』そのものであった。

「時空管理局です! 巻き込まれたくない人は、道を開けなさい!」

叫ぶが早いか、クイントは魔力の帯"ウイングロード"の上へと跳び乗る。
ローラーブーツが甲高い稼動音をあげ、ウイングロードを突っ走る。
眼下の民間人達は我先にとその場を離れ、ついには桂の周りに、まるで結界でも張ったかのように不自然な空白が生まれた。
もちろん、先ほどのように牽制射撃をするつもりなどない。
民間人に被害が出るかもしれないし、なにより今すぐ一発殴らないと、自分の気がすまないからだ。
カートリッジロード、両腕のナックルスピナーを起動。ギアの回転音が辺りに響く。
思いっきり足を屈伸させ、跳躍。
天高く掲げた右の拳を、桂に向かって思いっきり振り下ろす!

「……"んまい棒"」

しかし、桂は動じない。
先ほどと同じように袖の下から棒状の子袋を取り出し、

「"鎖羅魅"(サラミ)!!」

前転でクイントの一撃を回避しながら、地面に向かって袋を叩きつけた。
同時に溢れ出す白煙。
しかし、先ほどの煙幕と比べると、その視覚妨害効果は幾分か落ちているように見受けられる。
その証拠に、人ごみを掻き分けて逃走を続ける桂の姿が、薄っすらとだが未だに見えている。
これ幸いと再びウイングロードを展開しようとするクイントだが、その時、彼女は異変に気付いた。
稼動させていたナックルスピナーが、いつの間にか停止していたのだ。
待機操作をした覚えは無いし、魔力切れというわけでもない。
不審に思い拳に目をやると、何故かデバイスの表面に水滴が付いている。
まさか、と、彼女はある一つの理由に思い至る。

「……魔力阻害粒子……!?」

通称AMPと呼ばれる、生成された魔力を魔力素まで分解し、あまつさえそれと結合し液状化するという違法物質。
何故そんなものがここに、と思うが、すぐに考えを改める。
そうだ。そもそもあの男は、質量兵器を使う犯罪者なのだ。
違法物質の一つや二つ、持っていてもおかしくはない。

「フハハハハ! さらばだァァァ!」

頭上から聞こえてくる声。
顔を上げると、いつの間にそこへ昇ったのか、小さな雑居ビルの屋上から桂とエリザベスがこちらを見下ろしていた。
彼らはひとしきり笑い声を上げたあと、まるでクイントを小馬鹿にするように背を向け、隣のビルへと飛び移る。

「ま……待ちなさーい!!」

そんな態度を取られて面白くないのはクイントだ。
どうせ使えないなら、とデバイスを待機状態へ戻し、自らの足で桂を追う。
残りの局員達も、なんとか人ごみの間を抜け、彼女に追従するように桂の後を追っていった。
すぐ傍のビルとビルの間の路地に桂が身を潜めていることに気付く者は、誰一人としていなかった。



遠巻きに状況を見守っていた通行人達も興味を失い、普段通りの平穏が戻ってきた頃になって、ようやく桂は
路地裏からひょっこりと顔を覗かせた。
横断歩道を渡るかのように、キョロキョロと左右を見やり、局員の姿が認められないことを確認すると、
一心地付いたようにため息を吐く。

「……ようやく撒いたか……真選組並にしつこい連中だな、まったく」

身体中に付いた煤を払い、後ろに佇むエリザベスの方を向く。

「さて、長居は無用だ。帰るぞ、エリザベ……」

そこまで言い、その場を離れようとしたその時、桂はふとした違和感を感じた。
右腕が、何かに引っ張られているような感覚。
それは酷く小さな力で、引っ張るというよりはむしろ掴むと言った方が正しいように思える。
一体なんなのだろうか。
不審に思い、再び桂は後ろを振り向く。
目の前には誰も居ない。
しかし、服を引っ張られるような感覚は、一向に収まる気配が無い。
ふと、視線を下にやる。

「……なんだ? 何か用か?」

そこには、一人の少女が居た。
年齢は……はやてよりも年下だろうか?
二つ括りにした橙色の髪。
気の強そうなツリ目だが、どこかあどけない顔。
薄いレモン色のワンピースを身に纏ったその少女は、何故か桂の着物の裾をぎゅっと握り、
じぃっと彼の顔を見つめていた。
ふと、少女が小さく呟く。

「……お兄ちゃん……」

「お兄ちゃんではない、桂だ」

間髪入れずにお得意の口癖を返す。
それっきり、少女は黙りこくる。
一体なんなんだろうか、この子は。
自分は異国に兄妹などもっていないし、そもそも家族がいない。
こんな小さな子供に兄と言われる謂れなど、あろうはずもない。

「……用が無いのなら、俺は行くぞ」

そう言って少女の脇を通り、大通りに出ようとする桂。
彼の着物の裾を、再び少女が無言で引っ張る。
本当になんなのだ。
睨むように少女を見下ろすと、その少女は酷く寂しげに呟いた。

「……お兄ちゃん……いなくなった……」

普段はバカだの電波だの言われている桂だが、さすがにこの一言で状況の把握は出来たらしい。
少女に向き直ってしゃがみこみ、目線を合わせて彼は問いかける。

「迷子か?」

しかし少女はふるふると首を横に振る。
迷子ではない、というのだろうか?
桂は不思議そうに少女の次の言葉を待つ。

「……いなくなった」

少女は俯いたままそう答えた。
ますます意味が分からない。
連れ添った兄が消えたというのなら、それはつまり、

「つまり、迷子なのだろう?」

少女が迷子であるということに他ならない。
だが、少女はやはり桂の言葉を否定するように首を振り、ほんの僅かに語気を強めて答えるのだった。

「お兄ちゃんが、いなくなったの」

つまり、そういうことだ。
居なくなったのは兄の方であり、迷子になったのは自分ではなく兄だ、と。
彼女はそう言いたいのだろう。
さすがの桂も、これには頭を押さえた。
こんなところで、こんな子供にかまけている暇などないというのに。
その折、桂の背後が妙に騒がしくなってきた。
通行人のそれとは明らかに違う、忙しなく聞こえてくる足音。
次いで聞こえる男達の怒鳴り声。

「見つけたぞ! こっちだ!」

「すぐにナカジマ准尉に連絡を!!」

桂は苦々しい顔をして立ち上がる。
振り向くまでもなく分かる。局員に見つかったのだ。
完全に撒いたと思っていたが、どうやらいまだにこの周辺の探索を続けていたらしい。

「チッ! 本当にしつこい連中だな!」

八つ当たりのように局員達に発煙弾を投げつけ、エリザベスと共に、桂は目の前の少女を抱えて駆け出す。
ゴミ箱を蹴飛ばし、室外機を乗り越え、まるで忍者のように路地裏を疾走する。

「あ……」

桂に抱き上げられた少女は驚いた様子で、しかし不思議そうな表情で桂の顔を見上げた。

「目の前で困っている幼子を見捨てるようでは、武士の名が廃る」

少女と目を合わせようともせず、しかし桂は力強く言い切る。

「良かろう。お前の兄上殿、必ずや見つけてみせる」

しばらくの間、ぽけーっと桂の顔を見つめていた少女だが、彼の背後から聞こえてくる怒鳴り声に思わず肩を竦める。
抱えられた腕からひょっこり顔を出し背後を確認すると、酷く怒った様子の管理局員=少女にとっての正義の味方の姿。
そして彼らが追っているのは、自分を抱きかかえるこの男。
兄のことを探してくれるといった、この長髪の男。

「……おじさん、悪い人なの……?」

恐る恐る、そんな事を聞いてみる。
目の前の男は何も言わない。
何も言わず、ただずっと目の前を見据えるだけだ。
そのことが、少女を酷く不安にさせる。
――不意に。
少女の心境を汲み取ったのか。
不意に長髪の男は、小さく笑みを零しながら、少女に向かって呟きかけた。

「悪い人ではない、桂だ」

裏も表も無い、純な言葉。
自分を信じて憚らない、真っ直ぐな言葉。
その言葉が、少女の不安を一気に吹き飛ばした。
この人はきっと本当に、悪い人じゃない。
だって自分が、そう思ったんだから。
釣られるように少女も笑みを浮かべ、そして彼女もまた桂に向かって言う。

「あたし、ティアナ……ティアナ・ランスター!」

直後に背後で破裂したトリモチ弾の音に、再び肩を竦めるティアナなのであった。



その青年は、酷く焦っていた。
ちょっとだけくせっ毛になった、耳を隠すまで伸びた橙色の髪。
中性的というよりは、むしろ女性的と言った方が良さそうな柔和な顔立ち。
人ごみを掻き分け、危うく車に轢かれそうになりながらも、彼――ティーダ・ランスターは休日のクラナガンを
端から端まで駆け回る。

「おーい、ティアナー!」

声を張り上げてみるが、返事の代わりに返ってくるのは雑踏の音のみ。
近くを通りかかった人々が物珍しそうな顔でこちらを見てくるが、探し人が見つかる気配は、一向に訪れなかった。
一人きりで、泣き出したりしていないだろうか。
自分のことを探し回って、事故に巻き込まれたりしていないだろうか。
よもや、どこの馬の骨とも知れぬ暴漢に連れ去られたりしていないだろうか。
普段はおてんばで強気な、でも本当は寂しがり屋な妹の笑顔が、脳裏を過ぎる。

「どこに行ったんだ、まったく……。あれほど離れるなって言ってたのに……」

酷く焦燥した様子で、彼は両膝に手を付いて俯く。
現場の人材不足のおかげでほぼ毎日が仕事詰めだった彼が、ようやく迎えた非番の日。
久しぶりに家族との休日を満喫しようと、妹と共に街に繰り出した結果がこれだ。
よりにもよってこんな雑踏の中で迷子になられてしまっては、そうそう簡単に見つかる物ではない。
どうやら自分の幸運の女神様は、いつの間にやら実家に帰ってしまっていたらしい。
額から流れる汗を拭い、ふと顔を上げる。
視界に入ったのは、大きな人だかり。

「ん……?」

くたびれた足を引きずりながら、ティーダは人だかりへと近づく。
仮にも時空管理局に勤める身。
なにかトラブルがあったのなら、他の何を置いてでも率先して解決をしなければならない。
内に秘める正義感を高ぶらせ、立ち並ぶ人々の間からひょっこり顔を覗かせる。
人だかりの先は、家電屋だった。
『夏の新製品!』と書かれたのぼりと、店頭に立ち並ぶ多種多様な大型テレビ。
そのたくさんのテレビには一様に、店頭デモとして全く同じニュース番組が流されていた。
すなわち……。

『――現在も女児一名を人質に、逃走を続けているようです。
 付近住民の皆様は、不審者を発見した場合、すぐに最寄の管理局施設まで……え? あ、はい。
 たった今、新たな情報が入りました。どうやら逃走中の犯人の写真の撮影に成功したようで……
 あー、バッチリ写ってますね、コレ』

長髪の男に担がれた、自分と同じ髪色の気の強そうな女児の姿をテレビの中に認めた途端、
ティーダは脇目も振らずにその場を走り去った。



必死になって走り回り、跳び回り、大立ち回り。
ティアナの兄とやらも見つからぬまま、気が付けばもう日は傾き、辺りから人の気配は薄れていた。
人っ子一人居ない児童公園で、どさり、と人のくずおれる音が二つ聞こえ、鍔鳴りの音が空しく響く。
一心地付いた様子で桂が振り向くと、エリザベスに抱えられたティアナが、心配そうに叩き伏せられた二人の局員を見ていた。

「案ずるな。少し気を失ってもらっただけだ」

当然、無駄な殺生などをするつもりはない。ただの峰打ちだ。
桂の言葉にティアナは安心した様子で、そして感心したように桂に話しかける。

「おじさん、強いんだね」

「おじさんではない、桂だ」

さして嬉しがる様子も無く、桂は淡々と答える。
しかしティアナは彼の態度などお構い無しに、僅かに興奮した様子で、

「でも、お兄ちゃんのほうがもっと強いんだから!」

「ほう、そうなのか」

ほんの少し、興味を抱いたような言葉。
桂のそんな反応が嬉しかったのか、ティアナは嬉々として、身を乗り出すようにして捲くし立てる。

「すっごく強くて、すっごく優しくて、悪い奴をいーっぱい捕まえてるの!」

本当に得意そうに、本当に嬉しそうに。
まるで自分自身のことのように、満面の笑みを浮かべて語る彼女の姿が微笑ましくて。
つい口の端を緩めて、桂は呟く。

「……兄上殿のことが好きなのだな」

かぁっ、とティアナの顔が紅潮し、硬直する。
まるで今まで誰にも話したことの無い秘め事が、あっさりばれてしまったかのような、そんな態度だ。
だが、彼女がそんな大人しい様子になっていたのは、ほんの僅かな間だけ。
彼女はすぐに肯定の意を込めて、首を縦にぶんぶんと振る。
それこそ首がもげてしまうんじゃないかと思うくらい、何度も何度もだ。

「おっきくなったら、あたしもお兄ちゃんみたいな、カッコいい"まどうし"になるんだ!」

兄に背中を預ける自分を夢見て。
兄の背中を預かる自分を夢見て。
今度こそ目一杯の笑みを浮かべて、彼女は高らかに宣言するのであった。



突如として、その声は聞こえてきた。

「……動くな」

撃鉄を起こすような、独特の金属音。
砂利を踏みしめる音と共に聞こえてきたその声は、紛れも無く怒りを孕んでいた。
その音に、声に耳を傾けながらも、しかし桂は目の前のティアナの態度を不審に思う。
誰だかは分からないが、自分の背後に立つ者が銃か、それに類するものを持っているのは明白だ。
だというのに、目の前の少女は恐がるどころか、むしろ嬉しそうな顔すら浮かべているのだ。

「時空管理局だ。ただちに武装解除し、投降しろ」

再び聞こえてきたその声に、ようやく桂は後ろを振り向く。
ちょっとだけくせっ毛になった、耳を隠すまで伸びた橙色の髪。
中性的というよりは、むしろ女性的と言った方が良さそうな顔立ち。
普段なら柔和であろうその青年の顔は、今は獲物を狩る戦士のそれへと変貌していた。
そして彼の眼前からこちらに突きつけられる、異様な長物。
チープなステンレス製の銃を髣髴とさせる、銀と黒で装飾されたその長物には、
小口径の銃口が一、二、三、四。
破格の四つ――異様な形の小銃が、彼の右手に握られていた。

「お兄ちゃん!」

そう叫んだのは、他ならぬティアナだ。
彼女は目を輝かせながらエリザベスから跳び下り、青年――ティーダの元へ向かおうとする。
しかし……。

「……動くな! ティアナ!」

ティーダは激しい剣幕でティアナを怒鳴る。
だが、その目はティアナすらを見ていない。
ただ目の前の男を、己の正義に反する男を見つめるのみ。
その瞳には一点の澱みも無く、ただの一つ、護るべき正義だけが秘められていた。

「……なるほど。大した兄上だ」

その瞳が、仲間達の姿を思い出させる。
盲目的に自分達を信じ、そして散っていったかつての同胞達。
そして今、己の命を賭してでも国を変えようと、自分の元に集った仲間達。
目の前でこちらに銃を向ける青年は、彼らと同じ目をしていた。
そのような目をする者の末路を、桂は痛いほどに知っている。
だからこそ彼は、すぐ傍で怯え竦む少女への同情を禁じえなかった。

「さあ、武器を捨てて、早くこっちへ……」

デバイスの銃口を逸らさぬまま、ティーダは手招きをする。
身内を人質に取られている、と思い込んでいるせいか、その声からは僅かな焦りを感じ取ることが出来た。
沈黙が訪れ、しかしなおも動こうとはしない桂。
彼のその態度に苛立ちを感じたのか、ティーダの顔に浮かぶ焦燥感が、見る見るうちに色濃くなっていく。
僅かにでも刺激を与えれば、すぐにでも緊張の糸が張り切れてしいそうな空気。

「……ダメ!」

そんな中で、幼い少女の叫びが響く。
桂もティーダも、同様にして驚く。
その場に居た誰しもが、まさか彼女が真っ先に動き出すとは、思ってもいなかったからだ。

「撃っちゃダメ! このおじさん、悪い人じゃないよ!」

大きく両手を広げ、必死に懇願するようにティアナが桂の前へと飛び出した。
心底驚いた様子でティーダは何かを言いかけ、しかし黙り込む。
気が付いたら妹が迷子になっていて、手掛かりを見つけたと思ったら凶悪犯の人質になっていて、
ようやく妹を救い出せると思ったら、今度は突然『撃たないで』と来たもんだ。
これで混乱するなという方が難しい。
しかし、それ以上に。
どれだけティアナが『悪い人じゃない』と言っても、目の前の男が法を犯していることに変わりは無い。
死人こそ出ていないが、彼の放った質量兵器のおかげで、局員にそこそこの負傷者が出ている。
捕まえずに見逃す道理は無い。
だが、自分の身を呈して男を庇おうとするティアナの姿を見ると、そのことさえ後ろめたく思えてくる。
何よりも大事な妹が、そうまでして庇う男を、果たして捕らえることなど出来ようか。
大衆のために己の心を殺すか。
己の心のために、信じる正義を殺すか。
相反する思考のせめぎあいに、ティーダは他人が見てもそうと分かるほどに葛藤する。
その様子が滑稽に見えたのか、はたまた別の理由があったのだろうか。
桂は苦笑いをし、ティアナの頭にそっと手を乗せる。
ティーダが血相を変えてデバイスの銃口を向けてきたが、そんなものには全くお構いなしだった。

「良い兄上を持ったな。……少々正義感が強すぎるのが、玉に傷だが」

あるいは、彼は絶対に自分を撃たないと、そう確信していたのかもしれない。

「兄上殿が無茶をしないよう、しっかりと見張っているのだぞ」

そうとだけ言って、桂はティアナから手を離す。
背を向け、エリザベスの元へ向かう彼の背に浴びせられたのは銃弾などではなく、少女の寂しそうな声。

「……おじさん、行っちゃうの?」

「……おじさんではない」

振り向き、不敵な笑みを浮かべる桂の手には、道路で、屋上で、路地裏で、
本日実に色々なところで見かけた、棒状の子袋。

「俺の名は桂小太郎……革命家だ!」

叫ぶが早いか、桂は子袋を地面へ叩きつける。
一瞬噴き出す白煙。
ティアナもティーダも反射的に顔を腕で覆う。
しかし煙が彼女達を包み込むことは無く、ゆっくりと目を開いたその先には、
『バイビー』と書かれた紙切れ一枚が残されているだけだった。

「かつ……ら……こたろう?」

男の名乗った名にティーダは首を傾げる。
何だろうか。
何故か酷く懐かしい感覚がする。
確かあれは……そうだ。
確か訓練校に通っていた頃に……。

「……あぁぁぁぁぁ!!?」

戦争帰りの教官が熱弁していた、とある侍の名を思い出し、
ティーダは大慌てで地上本部へ連絡を取り付けるのであった。



その日の夜、地上本部のとある部屋に、一組の男女がいた。
一人はクイント・ナカジマ。
彼女は何故かしょぼくれた様子でソファーに腰掛けており、テーブルを挟んだ向かいのソファーでは
彼女の直属の上司、ゼスト・グランガイツがクリップボードの書類をしげしげと眺めていた。

「それで、半日に及ぶ追跡の結果、目標をロスト……か」

不意にゼストが顔を挙げ、そう呟く。
彼の顔を覗き込むように顔色を窺っていたクイントは慌てて目を逸らし、平静を装い、
しかしやっぱり無駄だと判断したのか、観念したように、

「はい……」

と言って俯いた。
しかしゼストは取り立てて彼女を責めるような素振りを見せず、指で書類をなぞりながら、
そこに記載されている事項を、無言で何度も繰り返し読み返すだけだった。
この沈黙が逆に恐い。
はてさて、一体どんな仕置きが待っているのやら。
とか。
この状況、娘達にはとてもじゃないけど見せらんないなー。
とか。
そんなことをクイントが考えていると、しかし彼女の予想とは裏腹な言葉が、ゼストの口から放たれる。

「追跡にアルピーノも同行していたと記載されているが……肝心の本人はどうした?」

「え? ……あ」



「……おーい……誰かいませんかー……」

月明かりの下、寂しげな女性の声が廃棄都市に響いたとか何とか。